第75話-2
廊下の先で、水色のワンピースが白と見間違える程離れた角を曲がり、次いで執事の黒い影も見えなくなると、ほっと少女が息を吐いた。そこには僅かに落胆も混じる。
面白くなさそうに、赤髪の男が唇を尖らせた。
「えらく気に入ったもんだな」
棘のある言葉に、スッとルーヴァベルトの表情が消える。唇を引き結ぶと、無言のまま歩き出そうとした。
その腕を、ぐいとランティスが引く。
「どこに行く?」
「別に」
つっけんどんな返しに、男の胸の内がきゅうと縮むのを感じた。一介の軍人として鍛えぬいた体躯の内側が、酷く脆く痛む。
同時に腹が立って、頭の後ろが赤く熱くなる気がした。眦が引っ張られたように吊り上る。灰青の双眸が、意図せずぎらりと輝いたことにも気付かない。
―――ジュジュには、笑みを向けたくせに。
耳の奥に、暗い声がした。ジュジュには笑いかけても、自分には不機嫌な顔しかくれやしない。
ほんの一滴の微笑みだって、ランティスには与えられず。
苦しくなって歯を食いしばった。胸の奥に、細い針を何本も差し込まれたようだ。じくじくと、緩やかに痛みが増してゆく。気づかれぬように、密やかに、男を殺そうと企むように。
捕まれた腕を煩わしげに睨めつけると、ルーヴァベルトは小さくを舌打ちをした。
「ちょっと散歩してただけです」
「一人でか」
「…はぁ」
一向に視線を合わせようとしない相手に、むっと唇を引き結んだ。
徐に顔を上げると、先程ルーヴァベルトが飛び出してきた角の向こうへ、厳しい表情を向ける。
「一人で行動させるなと言ったはずだ」
怒りを孕んだ低いうめき声。何の話かとランティスを見上げようとしたルーヴァベルトの視界の端に、見慣れた黒のスカートがひらめいた。
釣られてそちらを見やる。いつの間にか、ミモザが立っていた。
メイドは静かに首を垂れる。「申し訳ありません」
「隣室の掃除をしていた時に、部屋を抜け出されたようで…」
「言い訳はいい。眼を離すな」
「申し訳ありません」
硬質な声が彼女を叱責するのに、今度はルーヴァベルトが猫眼を釣り上げた。眉間に皺をよせ、自分を掴む腕を反対の手で引っ掴むと、ぎろりと睨み付ける。
「ミモザさんのせいじゃない。私が勝手に…」
「だとしても、結果、職務を果たせなかったのはミモザだろうが」
「それは…!」
「俺は、お前を一人にするなと、ミモザに命じた。だが、お前は一人で出歩いていた。これは、あいつの落ち度だ」
冷やかに言い捨てられ、ルーヴァベルトは悔しげに唇を噛んだ。
ランティスの言い分は尤もだ。この叱責は、決して理不尽なものではない。
そうわかっていても腹が立つのは、その原因が自分にあるからだろう。
腹の底からわき上がる泥のような感情を、必死で飲み込んだ。身体の内側で泡立つ苦い怒りを鎮めようと、ゆっくりと息を吸って…吐く。
掴んでいた男の腕から手を離すと、声を絞り出した。
「…部屋に戻る」
灰青の眼が、ルーヴァベルトへと戻る。硝子玉に似た澄んだ双眸が、どろりと濃い視線で彼女を絡め取ろうと見つめていたが、ルーヴァベルトは気づかぬまま。当のランティスもまた、己の双眸が危うげな熱を含んだことを知らずにいた。
男は、ゆっくりと瞼を閉じた。鼻から吸った息を、細く長く吐き出す。
「何処へ行くつもりだったんだ」
「はぁ?」
「俺が連れてってやる。…来い」
そう言うと、赤い髪を揺らしながら、返事も待たずに歩き出した。
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