第75話

 廊下で出くわした二人に、彼女は「げっ」と顔を顰め、次いで「あっ」と眼を見開いた。


 帰り支度をしたジュジュが、ルーヴァベルトに挨拶だけしたいと、彼女の自室へ向かう途中だった。

 その先の角を曲がれば部屋の前…というところで、ひょいと顔を覗かせたのが、当のルーヴァベルト本人。何かを気にするように後方へ向けられていた視線が前に向けられた途端、歩いてくる赤髪に気付いての反応である。

 露骨に嫌な顔をしたルーヴァベルトだったが、男の背後に見慣れた令嬢の姿を見つけ、ぱっと表情を明るくした。



「ジュジュ様!」


「ごきげんよう、ルーヴァベルト様」



 ふくよかな頬に笑みを浮かべ、丸みを帯びた身体で完璧な礼をとる。慌ててルーヴァベルトもそれに倣った。



「ご無沙汰しております、ジュジュ様」


「ええ、お久しぶりですわね」



 おっとりと頷いた相手をルーヴァベルトはまじまじと見つめる。


 先の夜会以降、ジュジュと顔を合わせたのは初めてだった。立て続けに怪我をしたこともあり、鬼執事殿のレッスンも含め、一旦お勉強は中止となったためである。

 実際、ダンスやマナーのレッスンは少し前に再開になったわけだが、座学に関しては「再開は未定」とジーニアスから聞いていた。座学が苦手なルーヴァベルトにとって、それ自体は万々歳なのだが、正直、ジュジュに会えないのは少し淋しい。

 毎日のように会っていた彼女は、柔く優しく、時に厳しい言葉も交え、様々な知識を与えてくれる相手。時折、母が、姉が、側に居ると言うのは、こういうことだろうかと考えることがあった。


 目が合うと、ジュジュがにっこりとほほ笑みを返す。意図せず、ルーヴァベルトもまた、はにかんだ笑みを浮かべていた。


 それにランティスがぎょっと眼を瞠った。


 自分の方をちらとも見ず、傍の令嬢へ嬉しそうに笑いかける婚約者殿。そんな顔、ランティスは向けられたことが無い。

 ぎっと悔しげにジュジュを睨めつけたが、彼女は双眸を細め、丸い身体を揺らして「ふん」と鼻を鳴らした。挑戦的な態度に、男が歯を食いしばり苦い顔をした。


 素知らぬ顔でルーヴァベルトに近づくと、そっとジュジュはその手を取った。



「怪我をされたと伺いました。お加減は如何です?」


「あ…大丈夫、です。もう傷も治りましたし」


「安心しましたわ。見たところ、お顔に傷も残っていらっしゃらないようですし…」


「ご心配をおかけしました」


「もし、ルーヴァベルト様の身体に傷が残っているのであれば、この愚か者の殿下を強かに打ち据えて差し上げなければ、と思っていたのですが…」


「え」


「とりあえず、せずにおきますわ」



 さらりと零れた発言に、赤茶の猫目がまん丸くなる。後ろではランティスが「こっわ…」と顔をひきつらせた。

 そんな様子など気にも留めず、彼女はふくよかな笑みを湛えたまま、小首を傾げて見せた。



「ルーヴァベルト様」少しだけ、声を潜めて問うた。



「お仕事は、果たされましたでしょうか?」



 その言葉に、彼女はぴんと背筋を伸ばした。何のことかとランティスは、柳眉を寄せて二人を見やる。

 鼻で息を吸い込んだルーヴァベルトは、それを吐き出すと同時に「はい」と頷いた。



「私は、私の、仕事をしました」



 その視線は、真っ直ぐに。


 淀みも、揺らぎも、迷いも、無く。


 たっぷりと一拍、少女の瞳を覗き込んだジュジュは―――睫毛を伏せた。淡い金髪の巻き毛が柔らかな頬に落ち、その下の表情を隠す。

 次に瞼を持ち上げた時には、いつも通りの、優しげな眼差しで微笑んで見せた。



「本当ならばもう少しルーヴァベルト様とお話をしたいのですが、今日は時間がありませんので…。今度、改めてお茶を頂きに参ってもよろしいかしら」


「…っ! はい!」



 ぎこちない笑みで、けれども嬉しげにルーヴァベルトが頷いた。それから、ほっとした様子で双眸を細める。口端が持ち上がり、そこに浮かぶ初々しい表情のせいか、少し幼く見えた。

 それを向けられたジュジュは、傍に立つランティスの歯ぎしりが聞こえる気がして、小気味よい気分だった。普段は余裕ぶった王弟殿下の顔を歪ませてやるのも面白い、と心の内で密やかに笑う。



(でも、これくらいにしておいてあげましょう)



 そっと、握った手を離した。



「それでは、ルーヴァベルト様。私はここで失礼致しますわ。ランティス様も、またいずれ」



 もう一度、綺麗な礼を取る。薄い薄い水色のワンピースが波打ち、水面に似て見えた。

 慌ててルーヴァベルトが「玄関まで送ります」というのを固辞し、くるりと踵を返す。

 距離を置いて控えていた執事へ、目も向けずに命じた。



「案内なさい。馬車の用意を」


「御意」



 頭を垂れたお仕着せの執事は、主にも一礼を向けた後、令嬢の丸い背中の後を追いかけ歩き出す。

 有無を言わさぬ雰囲気に、結局見送るしかできなかった。さりげなく隣に並ぶランティスも、黙ったままだ。

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