第73話
その日、ランティスが屋敷へ帰宅したのが夜分の事。
しかし、お構いなしに彼の自室へ出向いた婚約者殿は、怒りのままに男の胸倉を引っ掴んだ。
「どういうことだっ!」
その形相に、ああ、と彼は息を吐いた。拍子に、赤い毛先が目元にかかる。
「…マリシュカ嬢の件か」
「当たり前だろうが!」
「落ち着けよ」
ルーヴァベルトの肩に触れようと伸ばされた手は、乱暴に払われる。怒り心頭と顔を上気させた彼女は、痛むように顔を歪めてランティスを睨めつけた。頭の後ろで一つに結ばれた黒髪が、馬の尻尾のように揺れた。
部屋の隅に控えたジーニアスは、静かに傍観していた。「花」に関して知れば、殴り込んでくるであろうことは容易に予想できたため、別段驚きもしない。それは、主である赤髪の男も同じだろう。
改めて、ランティスはルーヴァベルトへ視線を向けた。
「落ち着け」
低い声。ひたと注がれる灰青の双眸に、思わずルーヴァベルトは唇を引き結んだ。言いようのない重たい圧に、渋々手を離す。
「いい子だ」抑揚無く言葉を口にすると、脱ぎかけの軍服を脱ぎ、椅子の背もたれへかけた。面倒くさそうに前髪をかきあげると、口元に皮肉めいた笑みを浮かべ、ルーヴァベルトへ向き直る。
「今日、マリシュカ嬢が来たんだろ?」
「…」
「本人から聞いたか」
「…聞いた」
唸る声を返す。くっと喉を鳴らした男は、首の後ろを撫ぜる仕草をした。
「まぁ、そういうことだ」
「全然わかんねぇんですけど」
怒りを孕んだ表情の中で、猫眼の瞳が爛々と輝く。暖色の灯りのせいか、普段より赤が濃く見えた。
どう説明しようが、納得することは無いだろう…そう思う。この件に関して、彼女がすんなり受け入れられるとは、到底考えられない。
同じ年頃の少女が、自分に変わり、毒を食む、など。
「小指を…」
「あ?」
「小指に、その…」
言い淀むルーヴァベルト。
言葉の先を悟ったランティスは、眉を寄せる。まさか、という呟きを飲み込み、小さく「そうか」と息を吐く。
(小指に、誓ったか…)
敬愛と束縛を意味する小指への口づけ。
本来であれば、愛し合う者同士が結婚の時に行う神聖な行為であり…一生に一度のみ行われるもの。
それを、マリシュカは、ルーヴァベルトに対し行った。
もちろん、正式な場での話ではない。誰も知らぬ場でそれをしたからといって、今後してはいけないなどという取り決めもない。
結局は、意識の問題。宗教的な考えというものは、生きている中で知らず心の奥底に根付いているもの。いくら形式上だけとしても、それをないがしろにできぬ力があるのは事実だ。
マリシュカは、心臓を、命の束縛を、王弟殿下の婚約者へ捧げると誓った。
その意味を分からぬほど子供ではないルーヴァベルトは、その意味を理解できる程、貴族社会も王族に付随するあれこれを知らない。
ただ、知り合ったばかりの少女が、自分への誓いを立てた…その事実だけが彼女の心をかき乱している。
「何であの人が、私の毒見なんてするんだ」
案の定な問いかけに、ランティスが天井を仰ぐ。燭台の灯りでは照らしきれない薄闇の溜りが揺らいで見えた。
何と答えようか考えて、結局飾らずに返す。
「彼女が、ファーファルの家に産まれたからだ」
「答えになってない」
「これが全てなんだよ」
「はぁ?」
再度掴みかかろうと伸ばした腕を、反対に掴まれた。そのまま引き寄せられ、あっという間に胸の中に収められる。
布越しに異性を感じた。体格が、骨格が、匂いが、違う。
頭にカッと血が上った。突き飛ばそうとしたが、がっちりと押さえつけられており、離れることもできない。
「離せ!」
「嫌。話したら暴れるだろ」
「うっさい!」
「落ち着いて話聞いてくれないなら、このまま聞け」
更に反抗しようとするのを、ぎゅっと抱きしめ抑え込むと、耳元に顔を寄せる。予期せず耳朶に息遣いを感じ、ルーヴァベルトが身を固くした。
「さっきも言った通り、毒見はファーファル家に産まれた女の宿命だ。これに関して、俺やお前が何を言ったところで、どうにもできん」
「そんな説明で納得できるか!」
「だろうな。が、納得して貰うしかない」
「いや…」
「マリシュカは、お前を選んだ」
腕に力を入れた。
胸に抱いた少女は、腕がたつ割に、華奢だった。もう少し力を込めれば、簡単に手折ってしまえそうで。
まぁ、若干暴れる力が強いけれど。
大型犬を抱きかかえている気分で、薄ら笑う。幾分か柔くなった心で、甘く毒を吐いた。
「拒絶すれば、今度は別の奴の毒見になるだけだぞ」
ぴたり、とルーヴァベルトが暴れるのをやめた。猫目を見開き、ランティスを見やる。赤茶の瞳に、信じられないという想いが、ありありと浮かんでいた。
「嘘じゃない」繰り返した。
「お前が嫌がれば、彼女は別の人間の毒見へ回される。そして、お前には、他のファーファルの娘が送り込まれてくるだろう」
「なん…で」
「そういう仕組みになっているからだ」
感情を込めぬよう、淡々と告げた。
本当は、嗤ってやりたい。馬鹿馬鹿しい、と。
けれども、それは許されない。ランティスは前王の息子で、ルーヴァベルトはその伴侶として選ばれたのだから。
「俺達は、正妻にファーファルの女を『花』としてつける。そうすることで、王家とファーファル、その他の家がバランスを保ってる。これは政治的な話で、元よりお前にも…マリシュカ嬢にも、拒否権はないんだ」
ぐっとルーヴァベルトが息を飲み、次いで何かを言おうと口を開いた。
それを遮る様に続ける。
「その中で、彼女は、出来うる限りの自由を選択した」
―――ルーヴァベルトに会うという、自由を。
ランティスが産まれ、その後生を受けたマリシュカは、必然的に彼の妻の「花」と決まっていた。泣こうが喚こうが、それは変わらぬ事実。
マリシュカは相手を選択することはできない。どんな人間がランティスの伴侶となろうが、その「花」はマリシュカなのだ。
けれど。
「マリシュカ嬢は、お前に会って、話して、お前を『選んだ』」
馬鹿馬鹿しいと笑う者もいるだろう。選択肢などないのに、と。
けれど、マリシュカは選んだ。
ルーヴァベルトに会って、話して、彼女の「花」になると、「自らの意志で」選んだ。
これは矜持だ。
全てが決め事に縛られたからと、己を失くさぬために。
腕の中で大人しくなったルーヴァベルトが、考え込むように俯いた。そのせいで、項が丸見えになる。存外、白くて細く、筋張っていた。
無意識に、肌へ唇を落とす。
ちゅっ…軽く吸った途端、少女の身体がびくりと跳ねた。同時に身を捩り、思い切りランティスの足を踏みつけた。
「いったぁ!」
「離せ! あほっ!」
「…っの、本当に色気も何もない女だな!」
「余計なお世話だ!」
真っ赤になって怒鳴ったルーヴァベルトは、一瞬の隙をついて腕の間をすり抜ける。
あっという間に壁際まで逃げた少女は、もう一度ランティスを睨みつけると、一言「バーカ!」と投げつけ部屋を飛び出して行った。
その背中を唖然と見送るランティスに、冷やかな視線を送る執事が、凍えた声で言った。
「本当、馬鹿、ですね」
中途半端に開いたままの扉が、ギィと軋んだ音を立てる。
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