第68話

 車椅子を押して部屋に入ったメイドは、その有様に思わず「げ」と声を漏らした。

 室内に、花の芳香が溢れている。匂いに敏感であれば、多少不快を感じるかもしれない。

 それ程までに、室内には、薔薇、薔薇、薔薇の群。

 朱を薄めた淡い色合いの花に、中央が黄色で先だけ濃いピンクの花。よく見れば、濃い紫の房になった小花が混ざっている。ライラックだろう。

 顔をひきつらせつつ中に入る。車いすに座ったヨハネダルク家の乳母は、優美な花にも強い香りにも気づかぬように、ふにゃふにゃと揺れていた。

 白を基調とした部屋の、ターコイズの壁の中に置かれた淡いピンクのソファに腰掛け…もとい、だれた様子で長くなっていたルーヴァベルトは、入ってきた相手にぱっと表情を輝かせた。



「ばあや! マリーも」



 飛び起きて駆け寄ると、車椅子の側にしゃがみ込んだ。



「この部屋に来るなんて珍しいな。どうした?」


「おはようございます、ルー様。今朝は朝食の席にいらっしゃらなかったので、ご機嫌伺いに参りました」


「そうだったのか…わざわざありがとう」



 ちらとマリーウェザーに視線を向けたルーヴァベルトだったが、すぐに老婆の膝に手を置くと、薄く微笑んだ。



「寝坊したんだ。さっき、部屋に運んで貰って食べた所」



 そう言う彼女の頬に白い湿布が貼ってある。両手には包帯。

 ヘーゼルグリーンの瞳を瞬かせたメイドは、けれど何も言わず、にっこりと笑みを作る。



「そうだったんですね。折角だったんで、お散歩がてらお邪魔しに来ました。あ、勿論手土産もありまーす!」



 手にしたバスケットを軽く持ち上げて見せると、赤茶の猫目をきらりと輝かせた。中にはチョコレートスコーンが入っている。勿論焼きたてだ。朝食の席に姿を現さなかった料理長が心配し、気持ちばかりと作ってくれたのである。

 ソファの側に車椅子を止め、バスケットをルーヴァベルトへ手渡した。一緒に食べようと提案されたが、やんわりと断る。流石にこの部屋でいつものようにくつろぐことは出来ない。

 じいとマリーウェザーを見つめたルーヴァベルトは、それ以上誘うことは無かった。受け取ったバスケットはローテーブルに置くと、自分も腰を降ろした。



「それにしても、すごい花ですねぇ」苦笑いでメイドが言う。



「すっごい匂い」


「今朝、ミモザとジーニアスが持ってきてくれた。お見舞いだって」


「…まさかとは思いますが…旦那様、から?」


「そのまさかです」



 言葉を濁すマリーウェザーに答えたのは、別の声。

 見やると、奥の寝室から、掃除道具を手にミモザが顔をのぞかせた。相変わらずぴりりとした表情で、足音も立てず近づいてくる。



「こちらの花は、全て旦那様からのご指示でルーヴァベルト様のお部屋に飾らせて頂きました」


「…おっも」



 思わず本音を零した同僚を、ミモザがぎろりと睨めつけた。慌てて口元を抑えると、たっぷりとしたストロベリーブロンドを揺らしながら首を横に振る。



「ナンデモアリマセン」



 硬質な一瞥をマリーウェザーに向けた後、ルーヴァベルトへ向き直った。途端、気遣うように表情を緩め、口調も柔らかく声をかける。



「お皿にお出ししましょうか」



 ルーヴァベルトが首を横に振ると、「ではお茶をお入れしますね」と一礼し、道具を持って出て行った。

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