第65話-2
「どうするって?」抑えた声でアンリが問う。
「ユリウス様が、階下に部屋を用意して下さるそうです。そこでルーヴァベルト様の手当をされる、と」
「そう。なら安心ね」
「私達は、一度広間へ戻りましょう。一度に全員が消えると怪しまれますわ」
「わかったわ。適当に時間を潰してから、ユーリ達の所へ行きましょう」
「はい。…でも、その前に」
ピンクと薄紫のドレスをふわりと揺らし、マリシュカがベンチへと足を向けた。
ベンチの足元には、硝子の破片が散乱している。グラスを満たしていた液体と、僅かに混じる赤は、果たして少女と給仕、どちらのものか。
マリシュカはしゃがみ込み、取り出したハンカチを広げ、液体の上に落とした。白いハンカチに液体がじわりと沁み、色が変わる。
その様子を覗き込んでいたアンリが、顎を指先でなぞりながら小首を傾げた。
「マリシュカ、それって…」
「ええ、そうですわ」
「…飲んだの?」
「いいえ」
十分に染みたのを確認し、それを取り上げると軽く振った。僅かに付着した細かい硝子片が、きらきらと零れ落ちる。ハンカチを元よりも小さく畳み、最後にアンリが取り出した別のハンカチで更に包んで、兄へ手渡す。アンリは上着のポケットにハンカチをしまうと、今度は妹の手を取って立ち上がらせた。
ドレスの裾についたホコリを払い、マリシュカが微笑んだ。「有難うございます」
アンリは軽く肩を竦め、視線を三人が消えた階段へと向けた。扉は閉じられ、今はもう、何事もなかったかのように、ただの手すりの状態だ。
温い風が夜を抜けて、肌を撫ぜた。額にかかる亜麻色の髪をかきあげ、アンリがため息をつく。
「とんだデビューになっちゃったわね」
苦々しい口調で吐き出した言葉に、マリシュカは瞠目した。
一際強い風が、びゅうと吹き抜ける。長い髪が、リボンと踊る様に宙を舞い、彼女の表情を覆い隠す。
「お兄様」マリシュカが呼んだ。
「私、決めましたわ」
「マリシュカ」
「あの方の、『花』になります」
俄かに眉を寄せたアンリは…けれど、「そう」と返しただけだった。
「本当に気に入ったのね」
「ええ」
顔にかかる髪を指で浚い、耳にかける。白い陶器の肌に、無機質な微笑で彼女は言った。
「だってあの方…全く私に興味がないのですもの」
「え、それが理由?」
「悔しいんですのよ」
くつくつと口元を抑え、楽しげな笑い声をあげた。「あの方にとって、私は、お菓子以下だなんて」
妹の無邪気な様子に、呆れ顔でアンリが唇を尖らせる。
「仕方ないでしょ。さっき会ったばかりなんだから」
「でもお兄様。今までそんな方、いらっしゃらなかったわ」
「そりゃ…私が言うのも何だけど、貴女、とっても美人だもの」
「有難うございます」
花香る満面の笑みで礼を述べると、視線をベンチへ向けた。そこに、彼の人の残像を見る。つい先程まで共に座り、お菓子を食べていた相手。手ずから食べさせてやると、まるで餌付けているような、妙な高揚感を感じたことを思い出す。
今はもう、空っぽのベンチが、淋しげにあるだけで。
「ルーヴァベルト様にとって、私は、『殿下の知り合い』で『アンリ様の妹』なだけなんですって」
少しだけすねる様に…けれど、同じ程愛しそうに綴る。
「なのに、たったそれだけの相手を、命がけで守って下さったんですの」
「そこに関しては、私も彼女に感謝しなきゃ。可愛い妹が無傷だったんだから」
「ええ。…代わりに、ルーヴァベルト様は、傷だらけですわ」
己の身をまるで厭わず、真っ直ぐに相手へ向かって行った少女。あれが、王弟殿下の婚約者。
令嬢と言うにはぎこちなく、身のこなしの割に幼くて、お菓子を食べる姿は酷く可愛らしかった。
彼女の置かれた場は過酷だ。
ランティスの婚約者―――その肩書きだけで、これからもきっと、多くの悪意に晒されることだろう。
時に拳が。
時に刃が。
時に、毒が。
「放っておけば、遠くない未来に、命を落としてしまう」
そんな危うさが、赤茶の双眸に潜んで見えた。
だから。
「私は、あの方の『花』に」
今度こそ、真の笑みを、兄へ向けた。常に彼女が浮かべるそれより、幼く、明るく見える笑顔。
たっぷり一拍置いて、アンリは一言「そう」と返した。
「貴女がそう決めたなら、そうなさい。ランには私から伝えておく」
「お願い致しますわ」
「でもね、覚悟なさいよ」
手を伸ばし、妹の両頬を包み込んだ。夜風に中てられ、少し冷たい肌。愛しげに、指の腹でなぞる。
「彼女の…ルーヴァベルト嬢の『花』は、他の方々の『花』であることよりも、もっとずっと…大変よ」
「そうですわね」
「わかってるのね?」
「頭では」
兄の手に触れ、頬ずりをする。蕩ける菫の瞳を細め、アンリを見やった。
「もし、万が一、恐ろしさで逃げ出そうとすることがあれば…お兄様が、叱咤してくださいませ」
是、とも否、ともアンリは応えなかった。
痛そうに微笑み、そっと妹から身を離す。背筋を但し、広間へ視線を移した。
「そろそろ戻ろう」
そう告げた横顔は、既にファーファル家嫡男の顔であった。
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