第66話

 ランティスの腕に隠されるようにして、階下の一室に入る。

 室内の灯りは落とされており、薄暗い中、ユリウス自ら燭台に火を入れて回った。それから、足早に室外に出て行ったかと思うと、すぐ戻ってくる。後ろには一人、メイドを引きつれていた。

 険しい表情のユリウス…それは、ランティスも同じだ。不快気に眉間に皺を寄せ、宙を睨めつけている。

 主の指示を受け、メイドがルーヴァベルトの側までやってくると、怪我の手当を始めた。手袋を外した両の掌を見やり、僅かに表情が陰る。が、すぐに姿勢を正すと、ピンセットを取り出し、皮膚から黙々と硝子片を取り除きはじめた。


 その間、男二人は部屋の隅で何がしか言い争っていた。小声の為、内容までは聞き取れなかったが、むっつりと押し黙ったランティスにユリウスが憤っているように見えた。

 掌の手当を終え、頬を冷やしている間に、乱れた髪を結い直して貰う。とは言っても、解いて櫛で梳かした後、緩く編んで横に流しただけだが。

 疲れたなぁ、と心の内で独りごちた。

 コルセットで絞られた腹の中には、目いっぱい菓子が詰まっている。直後に動いたせいで、少し気持ち悪い。掌はじくじくと鈍く痛む。片頬は熱を持ち始めた。

 早く帰りたかった。



(さっさと、これを脱ぎたい)



 欠伸を噛み殺しつつ、ちらとドレスへ視線を落とす。灰青の光沢が美しい布地に、赤黒い染みを見つけた。

 何気なくこすってみるが、既に乾いており、指先に薄く血が移っただけだった。



(ヤバイ…怒られるかな)



 今夜の為に誂えられたドレス。僅か数時間で汚してしまった。よく見れば、どこかで引っかけたのか、スカートの裾がほつれている部分もある。

 弁償しろと言われたらどうしよう…こんな時、ソムニウムであれば、上手いしみ抜きの方法でも教えてくれるだろうに。ヤン老人は洗濯の名人なのだ。



(帰りたい)



 そういえば、エーサンに貰った簪はどこへやったのか。よもや、あの男が持ち去ってしまったのだろうか。

 瞼が重くなってきて、慌ててルーヴァベルトは頭を振った。猫目を瞬かせると、うっかり白目を剥いてしまいそうになる。

 眠たい。

 ついでに胃が消化を始めたのか、ぐるぐると唸り声を上げ始めた。

 ああ、このまま寝てしまいたい。何もかも放りだして眠りたい。エヴァラントに「またこんな所で寝て」と苦笑されるだろうか。

 何度目かわからない欠伸をかみ殺した時、名を呼ばれた。



「ルーヴァベルト」



 ランティスが大股に近づいてくる。相変わらずむっつりと怒り顔だ。

 眼の端に滲んだ涙をさりげなく拭い、男を見やる。彼はルーヴァベルトの腕を掴み立ち上がらせると、そのまま出入口へ向かって歩き出した。



「おい、ちょっと待てって! ラン!」



 追いかけてきたユリウスが声を荒げた。「まだ話は終わってない!」

 しかし、聞く耳は持たぬと足を止めない。黙ってルーヴァベルトも後ろに続いた。

 乱暴に掴まれた腕が痛い。そういえば、この男は軍人であったのだと思い出す。ルーヴァベルトにはない力の強さが、少しだけ恨めしく思えた。

 扉を開くと、一度だけ、男が振り返った。燃える赤髪を逆立て、灰青の双眸を爛々と、ユリウスへ向ける。



「話は終わりだ」低い声を、投げるように告げた。



「てめえの家のゴタゴタは、てめえでケリをつけろ。俺に振るな」


「ラン…!」


「行くぞ、ルーヴァベルト」



 言い捨てると、婚約者殿の肩を抱き寄せ、二度は振り返らず部屋を出て行った。

 まだ大広間では夜会が続いている。おかげで、帰路につく二人の姿を招待客らに見とがめられることは無かった。

 俯いたままのルーヴァベルトを固く抱き寄せたまま、ランティスは馬車を呼ぶと、二人で乗り込む。気まずい雰囲気の中動き出した馬車の車輪音が、やけに大きく車内に響いた。

 始終無言のまま屋敷に到着した。迎えに出たジーニアスとミモザは、不機嫌な様子の主と、その後ろに続いた婚約者殿の姿に顔色を変えた。

 道中僅かに眠ってしまったルーヴァベルトは、寝ぼけ眼で馬車を降りた。途端、ミモザが駆け寄ってきて、その体を支えた。



「ルーヴァベルト様」



 不安げに名を呼ばれ、眼を擦りながら彼女を見やる。一つ赤茶の瞳を瞬かせると、薄く微笑んで見せた。



「手当して貰ったんで、大丈夫です」


「でも…」


「骨とか折れてないんで平気です」



 軽く言い放った。

 瞬間。



 ―――ッダン



 音を立てて、ランティスが地面を踏みつけた。綺麗に整備された石畳が、靴裏でじゃりりと鳴いた。

 驚いて、皆が男へ眼を向ける。

 赤い髪が、夜目にも燃え立つようだった。背を向けたまま、ちらと頭を捻り、僅かにルーヴァベルトへ視線を向けた。


 …ぞっとし、思わず口を噤む。


 灰青の瞳が、まるで獰猛な獣のような光を湛え、ルーヴァベルトを捕えていた。

 傍に立つミモザも感じたのだろう。ひゅっと息を止め、身を固くする。

 それは一瞬の出来事。けれど、随分長く感じた。

 視線を逸らしたランティスは、乱暴な足取りで歩き出す。ルーヴァベルトに対し一礼したジーニアスが、その後に続いた。



 残された少女は、すっかり吹き飛んでしまった眠気の代わりに、煩わしいしこりを胸の内に抱え、酷く面倒臭そうにため息をつく。

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