第64話-2
「ルーヴァベルト様」呼ぶと、彼女の視線がマリシュカに向けられる。作り物の表情ではない今は、少しばかりあどけなく見えた。
一つ、呼吸する。頭に登っていた血を宥め、怒りを腹の底へ押し込んだ。
「教えて頂けまして?」
顔を、元通り、穏やかなものへ戻し、続けた。
「あの時、どうして私の手からグラスをお取りになったか、を」
給仕が差し出したグラス。マリシュカは、明確な意思を持って、それを取った。
そしてルーヴァベルトもまた、明確な意思を持って、マリシュカのグラスを取り上げたように見えた。
一体、何故。
柔い笑みの内側で、相手の反応を伺う。ルーヴァベルトは、どこまでわかっていたのか。
筋を伸ばすようにゆっくりと首を捻るルーヴぁベルトは、瞬き一つ分、マリシュカを見つめた。それから、苦い表情でううんと唸った。
「その…うまく言えるかわからないんですけど」
随分砕けた口調で、言葉を探しながら続ける。
「あのタイミングで、ここに給仕がやってくるってのに、違和感があったんで…」
「違和感ですか」
「あのベンチ、位置的に中からは死角になって見えないはずなんです。加えて外が暗いから、仕切りの布が透けてバルコニーの様子も伺えない。なのに、あの給仕は、二人分の飲み物を持ってきた」
「だから…おかしい、と」
「…考えすぎだったなら、それでもよかったんです」
曖昧な笑みを浮かべ、肩を竦めた。「何もなければ、それに越したことは無いですし」
けれど、そうはならなかった。
幸か不幸か、ルーヴァベルトの懸念は的中したのだ。
じっくりと、品定めを行うように、マリシュカは彼女を見つめた。顔には微笑みを湛えたままだった。菫の瞳だけが、獲物を狙う猛禽類の如き光を宿すが、気まずげに視線を逸らしたルーヴァベルトはそれに気づかない。
ゆっくりと、マリシュカは唇で孤を描く。そう、と呟くように、息を吐いた。
「ルーヴァベルト様」両手を強く握りしめ、名を呼んだ。
「貴女は、命の恩人ですわ」
唇から言葉が零れ落ちる。果たしてそれが本心か否か、本人以外には判らぬ程軽やかに。
妖精に見まごう可憐な令嬢…今は、何処か妖艶さを含んで見えるのは、仄かな夜の灯りのせいか。
「ねぇ、ルーヴァベルト様」と、歌うように笑った。
穏やかさを取り戻したマリシュカの、精巧な美しさに見惚れていたルーヴァベルトは、僅かに首を捻った。掌に刺さる無数の硝子片がちくちく痛み、煩わしいな、等考えながら。
「どうして、私を助けて下さったの?」
すいと下から顔を覗き込んだマリシュカは、上目使いに菫の双眸を瞬かせた。
え、と息を飲んだルーヴァベルトだったが、赤茶の猫眼をぱちくりさせ、あっけらかんと答えた。
「どうして…って、貴女は、あの人の知り合いで、アンリ様の妹だから」
マリシュカは微笑んでいた。
変わらず、美麗な笑みを湛えていた。
その中で、纏う空気だけが、一瞬ぴりりと張り詰める。薄氷に触れた気がして、ルーヴァベルトは首筋が寒くなった。けれど、その理由はわからない。
緊張した空気に眼を白黒させている彼女へ微笑みを剥けたまま、視線だけ、舐める様に相手を見据えたマリシュカ。
と、不意に緊張を解いた。「決めましたわ」と独りごちるように零す。
視界の隅で、大広間とバルコニーを仕切る薄布が翻るのがわかった。つられてそちらに顔を向けたルーヴァベルトの横顔へ、のっぺりと無表情に、作り物めいた綺麗な顔を向け、菫の双眸だけ爛々と睨めつける。
けれども、駆け寄ってくる乱暴な足音へ視線を向ける時にはもう、柔い笑みに覆われ隠されていた。
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