第64話

 妹と友人の婚約者殿を探しバルコニーへやってきたアンリは、その惨状に顔を強張らせる。

 マリシュカが声を荒げている。珍しい様子だったが、妹と向かい合って立つ少女の姿に、理由を察した。

 綺麗に結い上げられていたはずの黒髪が、解け、乱れていた。化粧が施された白い顔には、不自然な赤が見える。それが腫れと鬱血、更には鼻血の痕だと気付いたのは、足早に二人に近づく最中であった。



「マリシュカ!」小声で、けれど硬く呼ぶと、妹が振り返る。妖精の如く美しい自慢の妹は、蒼白な顔面に怒りを浮かべていた。



「お兄様!」


「何があったの」


「襲われましたの…!」



 見知った姿に緊張の糸が緩んだのだろう。泣き出しそうに歪んだ顔を引き寄せ、胸に抱いた。大丈夫だと、背を撫ぜてやる。

 腕の中で身を強張らせている妹とは裏腹に、ルーヴァベルトの表情はまるで無感情であった。痛々しい傷は生々しく顔を汚していると言うのに、当の本人は痛みも感じていない風だ。

 眉根を寄せ、視線をちらと出入口へ向けつつ尋ねた。「大丈夫なの?」

 彼女は頷く。既に笑みを作るのはやめたのだろう。初めて会った日と同じく、然程興味の無さげな顔で、淡々と説明を口にする。



「あちらのベンチにマリシュカ様と座っていたところ、給仕の男が飲み物を持ってきました。どことなく不審に感じ警戒していたところ、刃物で襲いかかってきたため応戦しました」


「応戦? 貴女が?」



 菫の瞳をまん丸に声を上げると、途端、彼女が「しまった」という顔をした。慌てて口を塞ごうと両手を顔に近づけたところで、顔を顰めた。



「…っ」



 痛みに耐える様子で歯を食いしばったルーヴァベルトの腕を、兄を押しのけ飛び出したマリシュカが掴む。



「いけませんわ! 硝子片が刺さってますのよ!」


「そうでした…すみません」


「何で貴女が謝るんですの!」



 今にも地団太を踏まんばかりの妹の肩を押さえ、けれどアンリも厳しい視線をルーヴァベルトへ向けた。



「深くは聞かないでおくわ。でも、いくつか確認させて」


「はい」



 素直に頷いた少女は、真っ直ぐにアンリを見やる。赤茶の猫眼は、薄闇の中でもくっきりと輪郭を持って、輝く。手袋には血が滲み、灰青のドレスには一つ、赤黒い染みが滲んでいた。

 今は見ないふりをし、アンリは続けた。



「襲ってきたっていう男はどこ?」


「自ら飛び降りました」


「ここから?」


「はい。下は木ですし、恐らくすぐに逃げたかと」



 小さくため息をついたルーヴァベルトが、手すりの外を見やった。暗い中に、夜鳥の声が遠く聞こえた。

 薄布で仕切られた室内からは、華やかな音楽と笑い声。漏れる光が、少女の横顔に影を落とし、言いようのない雰囲気を醸していた。

 すうと双眸を細めたアンリは、細く息を吐いた。「わかったわ」

 やんわり妹の手を離す。未だ怒りも露わなマリシュカの肩を軽く叩くと、再度ルーヴァベルトへ視線を戻した。



「ルーヴァベルト嬢は、その恰好じゃ中へは戻れないから、とりあえずここに居て。ランを呼んできて、指示を仰いでちょうだい」


「わかりました」


「マリシュカはルーヴァベルト嬢と一緒に居て」


「勿論ですわ」


「いいこと? 大人しく待っているのよ」



 すぐ戻るから…そう言い残し、足早にアンリは大広間へと戻って行った。

 その背を見送るルーヴァベルトは、相変わらず無表情。バルコニーとの間を仕切る薄布が翻った拍子に光を零し、彼女の肌をなぞる様に照らし出す。

 際だって美しい少女ではない。だというのに、不思議と目が離せない。

 赤く腫れる頬に、血で汚れた肌に、触れたい衝動をマリシュカは抑え込み、瞠目した。

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