第63話-2

 一瞬、ルーヴァベルトが苦い表情を浮かべた。と、手を伸ばし、マリシュカの手からグラスを奪う。


 ガチャン―――硝子が割れる音がしたのは、それとほぼ同時。



 さっと視線を巡らせたルーヴァベルトは、盆の上からもう一つのグラスが消えていることに気付いた。下に落としたのだろう。給仕が屈みこんでいた。

 瞬間、肌が泡立つ。ルーヴァベルトは、考えるよりも先に、手にしたグラスを勢いよく給仕の頭へ向けて叩き込んだ。



「ぐっ…!」



 呻き声を上げ、給仕が横倒しになる。衝撃で割れたグラスがその周りに散乱した。

 叩きつけた衝撃で、ルーヴァベルトの掌にも、手袋越しに細かい破片がチリチリと皮膚を引っ掻いた。しかし、意に介すことなく、無表情にマリシュカの腰を抱えると立ち上がらせ、半ば強引に駆けだした。

 腕の中でマリシュカが硬直している。加えて、ボリュームのあるドレスが、言葉通り足を引っ張った。舌打ち交じりに踏み下ろしたヒールが、グラスの破片を踏んでじゃりりと鳴かした。



 ―――この判断が間違っているかもしれない。



 胸の内で揺らぐ不安に、眉を顰めた。けれど、足は留めなかった。


 間違っているかもしれない。

 けれど、間違っていないかもしれない。


 少しでもそう思うのであれば、一番「安全」な選択肢を取る。後悔は後からすればいい。謝罪するにも、下げる頭がなければどうにもならない話なのだから。


 果たして、ルーヴァベルトの予感は、悪い方に的中した。


 バルコニーの出口を目指す少女らのドレスが、ぐいと引っ張られた。殴られた給仕が、灰青の裾をぐいと掴む。そこから感じる殺気に、ルーヴァベルトは舌打ちをした。

 なりふり構わずスカートを引っ張り、男を振り払った。マリシュカを背に押しやり、庇う形で前へ出る。

 いつの間にか立ち上がった給仕は、殴られた頭を押さえつつ、こちらを睨めつけた。その手には、ぬらり鈍く光る銀の刃…ナイフが握られていた。

 先程までの丁寧な印象を脱ぎ捨て、男が二人へ向かってきた。それに備え、ルーヴァベルトはドレスの下で、足を広げ踏ん張って立つ。

 相手は武器を持っている。こちらは丸腰の上、動きにくい。更に、もう一人オマケもついている。



(目当ては…私、か?)



 先の出来事を考えれば、ルーヴァベルトを廃したい輩だろう。

 しかし、僅かながらマリシュカが目的の可能性もあった。が、どちらにせよ、男が手にした獲物は、穏やかなものではない。

 左手にナイフを握り、男が突っ込んでくる。そのまま左下から右上へ、銀の刃を斬り上げた。

 その動きに合わせ身を逸らせると同時に、ルーヴァベルトは髪から簪を引き抜いた。その勢いを殺さぬままに、男の左腕の付け根へ簪を穿つ。渾身の力で叩き込まれた銀の飾りは、白い布越しに肉を突き、しゃらりと涼やかな音を立てた。



「ぅぐっ!」



 痛みに顔を歪める男へ、そのまま体当たりする。もつれる様に倒れ込んだが、床に手を突き飛び起きた。そこらに散らばっていた硝子の破片が、掌に突き刺さって痛い。けれど、気にする余裕などなかった。

 下敷きになっている男の左手を見やり、側に転がったナイフを見つけた。力いっぱいそれを蹴りつけ遠くへ追いやると、ついでに男の掌をヒールで踏みつけた。



「ギャッ!」



 踵に、肉の感触があった。

 悲鳴をあげた男が飛び起きた拍子に、床に転がったルーヴァベルトだったが、即座に男の腰に飛びつくと再度押し倒す。男はぎゃあぎゃあとがなり立てながら、彼女の頭を殴りつけた。



「逃げろ!」ルーヴァベルトが叫んだ。



「早く!」



 後ろのマリシュカへ向けた言葉。全く彼女の様子は見えないが、普通のご令嬢ならば、この有様に腰を抜かして震えていることだろう。

 正直邪魔だと思った。今の状態だと、彼女に構う余裕も、庇う余裕もない。

 巻き込まれる前に、自力でどこぞへ逃げ出して欲しい。そう願った。



「この、クソ女!」怒鳴り声と共に、男の平手が少女の頬を打つ。勢いで首が横に捻られ、軽く脳が揺れるのを感じた。腕から俄かに力が抜ける。

 その隙をついて、男がルーヴァベルトを引きはがした。

 尻餅をついたルーヴァベルト。給仕だった男は、よろめき後ろの手すりへ縋る。腕の付け根に突き刺さったままの簪が、男の動きに合わせてシャラシャラと鳴いていた。

 忌々しげにそれを引き抜いた。

 ルーヴァベルトも立ち上がり、相手を見据えた。ドレスが動きづらい。前回はペチコートを脱いだけれど、今はそんな隙もない。

 ああ、だからドレスは嫌なんだ…苛立ち交じりに、乱れた黒髪をかきあげる。

 月もない夜闇の中、爛々と輝く赤茶の猫眼を見開き、彼女は嗤った。

 ひたと相手を睨めつけた男は、細く呼吸し息を整えると、ゆっくりと双眸を瞬かせる。

 と、こちらへ背を向けたかと思うと、あっという間に手すりを飛び越え宙へ飛び出した。



「まっ…!」



 慌てて駆け寄ったルーヴァベルトは、身を乗り出して階下を覗き込んだ。しかし、バルコニーの下は濃い緑の木々が鬱蒼としているばかりで、何も見つけられなかった。



「逃げられた…」下唇を噛み、顔を顰める。



 その後ろから、ひっくり返った声で呼ばれた。



「ルーヴァベルト様!」



 振り返ると、転がる様にマリシュカが駆け寄ってくる。陶器の如き白い肌が、室内の逆光でもわかる程に青ざめていた。

 無事な様子に、ほっとルーヴァベルトは表情を緩めた。



「怪我はありませんか?」


「…っ! それはこちらの台詞です!」



 眦を吊り上げ声を荒げる様子に、少女が目をぱちくりとさせる。その拍子に、鼻から血が垂れた。



「あっ」更に顔を歪めたマリシュカと、若干の違和感に下を向いた拍子に、ぽたりと赤い雫が一つ、灰青のドレスへ落ちた。生地にじわりと染み、黒味を帯びる。

 慌てて腕で鼻を拭い、しまった、と思うが後の祭り。右の手袋に、擦れた赤の汚れが沁みた。



 どうしようもなく情けない気持ちになり、結局ルーヴァベルトはぎこちない笑みを浮かべ、結果、更にマリシュカを怒らせることとなった。

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