第62話

 夜風が存外冷たくて、ルーヴァベルトは身を竦めた。

 背後では、薄布越しに煌びやかな夜会が続いている。反して、バルコニーにはすっかり夜の緞帳が落ちていた。


 今夜は月も星もない。墨を塗った天は、所々雲に霞んで薄闇が流れている。雨でも降り出しそうな空模様だが、空気に水気は感じなかった。



「こちらですわ、ルーヴァベルト様」



 歌う口調で、マリシュカが呼んだ。

 バルコニーに置かれたベンチに腰かけ、お菓子が山盛りの皿を手にしている。薄闇の中でも、白い輪郭はくっきりと美しい。亜麻色の髪は淡く光って見えた。



「こちらにお座りになって。早く食べましょう」



 微笑む令嬢へ、ぎこちない笑みを返しながら、滑る足取りでベンチへ近づいた。

 そんなルーヴァベルトの手にも、山盛りの菓子皿。色とりどりに飾り付けられた甘味が、食べられるのを大人しく待っている。



 発端は、ルーヴァベルト自身だ。

 ランティスがユリウスを引きずって行った後、「人目のないところで、ゆっくりお話致しましょう」というマリシュカに、バルコニーへ誘われた。

 素直に従ったルーヴァベルトだったが、途中、壁際の長テーブルに用意された数多くの軽食を見つけて、思わず足を止めた。サンドイッチから菓子に果物…目移りする程多くのそれらは、ほとんど手を付けられた形跡がない。招待客たちは飲むばかりで、卓上をちらとも見はしなかった。

 そんなことはお構いなしに、ルーヴァベルトの目は、多くの軽食類に釘づけである。小さく「くう」と腹も鳴った。



「あら、お腹が減られたのですか?」



 隣に立つマリシュカの言葉に、はっと我に返る。慌てて取り繕うとしたが、また腹が「くう」と悲鳴を上げた。



(ヤバイ)



 辛うじて顔には作り笑いを浮かべつつ、背に冷や汗をかいた。

 口の中は唾液でいっぱいだ。あんな美味しそうなものだらけなんて、視覚の暴力である。ビスケットにマカロン、ケーキにチョコレート。見たことのない食べ物もあり、興味も食欲もそそられるばかりだ。

 少しだけ、つまむ位ならいいだろうか。

 いやしかし、誰も手を付けていないということは、食べてはいけないものなのかもしれない。



(あ、もしかして食べられない作り物とか…?)



 その場で固まったまま、頭の中でぐるぐる考えを巡らせる。疲れと空腹で思考が混乱してきた。

 そんなルーヴァベルトを愛おしげに見つめていたマリシュカは、徐に空の皿を手に取ると、一つをルーヴァベルトへと渡した。

 え、と驚いた顔をした彼女に、白い肌を仄かに淡く染め、マリシュカが囁いた。



「実は、私も気になってましたの。彼の名門ガラドリアル家の夜会のお菓子は、どんな味がするのかしら…って」



 そう言って、更に顔を寄せると、悪戯っぽく双眸を細めた。



「今なら誰も見ていませんわ。目いっぱいお皿にとって、こっそりバルコニーで頂いちゃいましょう」



 一瞬ぽかんと目を見開いたルーヴァベルトだったが、すぐに頷いて、そそくさと更に置かれたトングへ手を伸ばした。

 打って変わってソワソワと楽しげな彼女の様子に、マリシュカがとろりと妖艶な笑みを浮かべたが、菓子に夢中なルーヴァベルトが気づくことは無かった。

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