第55話
ここ半月、随分自分は大人しかった…とルーヴァベルトは思う。
座学にダンス、マナーレッスンの課題を熟し、出来上がったドレスの試着を文句も言わず繰り返し、夜会に向けての化粧決めの時間も大人しく顔を弄られた。やれ髪型がどうだ、飾りがどうだと、難しい顔をしたミモザが悩んでいる側で、正直何がどう違うのかがわからないと思った。が、何がどう違うかもわからない自分が口出しすべきではないと、結局黙ったまま素直に従った。
というのも、先日の一件以来、屋敷の空気が重いからである。
一番顕著なのは、メイドのミモザだ。彼女はルーヴァベルトが一人になることを、異様に嫌がるようになった。朝起こしに来てから、基本側に居る。時折、他の仕事で離れざるを得ない場合は、必ず誰かを代わりに置いて行く徹底ぶりだ。それが煩わしく、こっそりと逃げ出したことがあったのだが、普段冷静が服を着て歩いているような彼女が酷く取り乱して屋敷中を探しまわったのを知って、後悔した。濃い茶の瞳が、痛みをこらえる様に揺れ、ブルネットは乱れモブキャップから零れ落ちていた。
あれ以来、ミモザのすることに口を挟むのをやめた。
流石に朝の鍛錬は、彼女に秘密にしているためついて来ないが、朝は朝でハルが顔を出すのである。下がり眉で控えめに、けれど必ず傍に居る。夜はソムニウムの仕事もあるだろうと気遣って、「一人でも平気だ」と告げたのだが、翌日からは隠れて覗き見るようになった。そちらの方が気が散って、結局傍に居る方がましということになった。
まぁ、最終的には鍛錬の相手をしてくれるようになり、これはこれで良かったかもしれないが。
ついでに言えば、屋敷の主であるランティスの様子もおかしい。急に早く帰ってくるようになったのである。
返ってくるや否や、真っ直ぐルーヴァベルトの所へやってくる。何の用かと思えば、別段用事があるわけでもなく、ただお茶を飲んでその日あったことを何となく話し終る。
先日の件については、一つも話題に出ることは無く、襲撃者のその後に関しても男が語ることは無い。何となく、聞いてはいけない気がして、ルーヴァベルトも尋ねることはしなかった。
歪な時間だと思った。
けれど、文句は言わなかった。
ミモザやハルの件もあったが、赤髪の男―――ランティスに、王弟殿下に、同情もあったから、だ。
そんな自分の心の変化に戸惑いはあった。けれど、露骨な殺意と、敵意に、害意…それらを目の当たりにし、すとんと腹の底に落ちるものもあった。
きっとあれは、ランティスが常に晒されてきたもの。
生まれながらの地位、それに加え両の瞳の色が男に与えたものは、不遜さと権力だけではない。同じだけの、仄暗いものに浸されている。
だから、ルーヴァベルトを選んだ…否、選ばざるを得なかった。
自分だけでなく、周りに侍る存在も、一様に強くなければ生き残れない…そんな椅子に、男は座らされているのだから。
「愛してる」―――そう言った男の真意は、未だわかりかねている。
もしかしたら、選ばざるを得なかった婚約者を、男なりに大切にしようと努力しているのかもしれない。
繰り返される、中身のないお茶会。その中で、そう感じるようになっていた。使い捨ての相手ならば、時間を割いてまで、足を運ぶことは無いだろうから。
(きっと、悪い奴ではないのだ)
赤髪の男が零す優しさらしきものが、ルーヴァベルトの心に、小さな雫となって落ちる。凪いだ水面に波紋が広がる様に、胸の内が揺れた。
それはもぞもぞとくすぐったく、落ち着かない気持ちにさせる。
―――その正体を知らぬまま、夜会の夜がやってきた。
早い時間から風呂に入れられた。
頭の天辺から足の先まで磨き上げられ、何やら花の匂いのする香油を塗り込まれた。コルセットを締め上げ、ドレスを着付けて、化粧と髪を結い上げる。全て終える頃には、明るい空に夜の気配が遠く漂い始めていた。
ほとんど一日仕事なのかとげんなりしているルーヴァベルトとは裏腹に、ミモザと手伝いにきたマリーウェザーは、仕上がりに満足げだ。
「物凄く綺麗ですよ、ルー様!」
「本当に」
はしゃぐマリーウェザーと並び、珍しくミモザも嬉しげな笑みを浮かべていた。メイドらの賛辞に、ルーヴァベルトは「はぁ」と嘆息する。
華美なドレスでないことに、少しほっとした。重めのしっかりとした布地は無地で、胸元から腰に掛けて、同色の糸で刺繍が施されている。首元から手首にかけては透ける生地になっており、露出が多くない部分も良い。
但し、色が灰青なのに、少しばかり苦い気持ちになる。
無地のスカートの裾には、銀色の細かいビーズが散らされ、星空を思わせる美しい出来栄えではあるのだが。
(私だと、着せられている感が凄い)
ドレスと、それからアクセサリー。こちらは王弟殿下の髪を思わせる赤だ。
見るからに「王弟殿下の所有物」といった様子で、主張が強い。これで隣にランティスが並ぶのかと思うと、間違いなくルーヴァベルトの顔は霞むに違いない。
何度目かわからぬため息をつくと、頭の上でしゃらりと銀が鳴った。
今回、唯一ルーヴァベルトが主張したのは、この髪飾りだけ。
頭の後ろで丸く団子に結い上げた黒髪に、ドレスと揃いで誂えたリボンが飾られている。その側に、控えめに差された銀の簪は、花弁の端だけ赤く咲く。
―――永久にお前を害するものを失せる様に、我が名を持って言祝ごう。向かう先が、例え、どのような道であったとしても
(はい、先生)
どこか吹っ切れたように、鏡の中の姿を見つめた。
自分が向かう先がどのような道であったとしても、やることは同じだと、先の一件でわかった。結局、ルーヴァベルトにできることなど知れている。
他の令嬢にできず、ルーヴぁベルトにできること。
(何が相手だろうが、全員、捩じ伏せてやるだけだ)
例え何を纏おうが、どう装うが、それは変わらない。
既に、顔の痣は消え失せ、肌に裂傷の痕はない。痛みはなく、残るのはルーヴァベルト自身の変化だけだ。
「ルーヴァベルト様、そろそろお時間です」
頭を垂れたミモザへ、鏡越しに頷く。この二か月で随分慣れたドレスの裾を綺麗に捌き、ルーヴァベルトは踵を返した。
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