第51話

階上に戻るや否や、ランティスは上着を脱ぎ捨てた。

 軍服の飾りがシャラリと悲鳴を上げ、廊下に落ちる。無言でジーニアスが拾い上げ、大股に先を行く主の後を追った。

 白い手袋も乱暴に外し、放り投げた。きっちりと占めていた高襟のボタンを外すと、引っかかって千切れて落ちた。転がるそれすら、後ろを行く執事が回収する。


 その様子に、二人の背を追いかけつつ、マリーウェザーが息を吐いた。

 旦那様は、随分ご立腹のようだ。



(まぁ、そりゃそうか)



 黒髪の少女の姿が、脳裏を過った。

 木々の中、地べたに座り込んだ、ズタボロの姿。ドレスは切り裂かれ、肌に駒かな裂傷が走り、顔は赤く腫れていた。

 遠目にその姿を見とめた瞬間、マリーウェザー自身、頭が熱くなるのがわかった。カッと火がついたように燃えたのは、怒りか腹正しさか。

 年頃の女になんてことを、と思う。

 その割に、本人はけろりとしていて、それに存外ほっとした自分に驚いた。

 腕が立つとは聞いていたが、自分を殺しにきた相手を…例えそれが素人だとしても、大の男を一人で伸してしまうとは、随分剛毅な女だ。一人襲われ、咄嗟に狙われにくい場所へ逃げ込み、邪魔なものは脱ぎ捨て、大立ち回り、とは。



(面白い女)



 知らず口元が緩んでしまう。気づき、慌てて唇を撫ぜた。


 自室の扉を乱暴に開け放ったランティスは、部屋に入るなり靴を脱ぎ捨て、靴下も放り投げた。やはりそれも、ジーニアスが拾って片づける。

 気にせず、どかりと椅子に座った男は、不機嫌そうに深く息を吐いた。



「服、洗っといてくれ」



 執事の腕の中の軍服を見やり、低い声が指示する。是と頷いた灰髪の男は、一瞬マリーウェザーに視線を向けたが、やはり無言で部屋を出て行った。

 後に残されたメイドは、多少の居心地悪さを感じつつ、壁際に立つ。屋敷の主の言葉を待つ間、重たい沈黙が部屋を支配した。

 一時し、気分が落ち着いたのか、天井を仰ぎつつ、ランティスが口を開く。



「思うよりも…ずっと、腹が立った」



 独り言のような言葉。メイドは応えず、続きを待った。

 お前はどう思う、とランティスが問うた。



「あいつらは、どれに雇われたと?」



 視線は天井に向けたまま、感情の籠らない問いかけが宙に投げられる。それを自分に問うか、と内心嘲笑いつつも、マリーウェザーは務めて表情を消し、答えた。



「一介のメイドである私には、何とも」



 ハスキーな声に、ゆっくりとランティスが首を傾ける。じいと硝子玉の双眸が、マリーウェザーを見つめる。

 決して目を合わせぬよう瞼を伏せ、床を睨めつけていた。



 やがて、ランティスが呼んだ。「マリーウェザー」



「俺は、お前がどう思うか、と、聞いているんだ」



 男の声は、よく響く。低く甘い音が、どろりと宙を這い、メイドの耳を噛む。


 ぞわり、背筋を冷たい指がなぞるように。


 一瞬思案し、マリーウェザーは顔を上げる。

 ヘーゼルグリーンの眼差しが、灰青のそれと重なった。


 刹那、どん、と心の臓が大きく跳ねた。全身を揺らすような大きな音で、鳴った。

 ああこれが「失せし王」の瞳か。思わず口元が三日月に歪みそうになるのを、必死で堪える。嗤う時では、ない。



(これは…恐ろしいな)



 滅多に合わせることのない男の瞳。

 常に彼自身が蓋をしているのだろう。けれど、今は、怒りにそれを忘れている。己の灰青が他人の心にどう作用するか、それすら置き去りにした怒り。

 意志を持って視線を向けられれば、きっと誰しも絡め取られてしまう…そんな力のある瞳だった。

 狂喜する人間がいるのも頷ける。

 この色は、心を狂わせるもの。

 大よそ同じ人とは思えない。否、思わないだろう。

 視線に囚われた瞬間の、圧倒的な存在感が、あまりにも甘美で。

 恐ろしいと感じると同時に、欲しい…そう望んでしまいそうだ。あの目が、この男が、欲しい、と。


 果たして、マリーウェザーは意図して心に蓋をした。確かに目の前の相手に対して湧き上がる感情はある。

 が、それ以上に、自分の心を占める物があると、自身でわかっていた。

 それは、意識を絡め取ろうとする灰青の輝きよりも深く、自分の中に根付いている。だから平気だ、と胸の内で独りごちた。


 真っ直ぐに視線を返した。


 嘘はつくまい、と思った。上手についても、きっと見破られる。今、彼の怒りを買うのは得策ではない。



「マリーウェザーは」と、声を出した。



「全員、真に素人と見ました。男らが言ったことは本当でしょう。金の欲目で、愚かにもルーヴァベルト様に手を出した」



 酒場の下りも、女の話も、きっと真実。けれど、後半の辺りは情を引くための作り話だろう。

 まぁ、どうでもよいことなのだが。



「男らからこれ以上の情報は引き出せないでしょう。酒場に行ったところで、女の情報も出ないと思います。目立つ風体故に、逆に煙に巻かれるか、と」



 城下に住む人間は、貴族街のどこに誰が住んでいるかなど、そうそう知りはしない。特にこの屋敷に王弟殿下が住んでいることは公にされておらず、貴族内でも知る者は少ないだろう。従来であれば、王族は王城で生活するべきなのだから。

 女の裏に居るのは、ここを王弟の屋敷であると知っており、かつルーヴァベルトの存在を把握している人間。

 そして、ルーヴァベルトを廃したい輩。


 一度瞠目し、マリーウェザーは嘲るように口角を持ち上げた。



「あまり、賢いやり方とは言えませんね」



 噂に上る婚約者の存在に焦ったのか。

 それとも、彼女を殺せば、丸く収まると考えたのか。

 どちらにせよ、相手は、この王弟の怒りを買った。



「旦那様にルーヴァベルト嬢を娶って頂きたくない方々の仕業でしょう。お心当たりがあるのでは?」



 少しだけ、声を沈めて尋ねた。

 男の顔は動かない。じいと見つめる双眸は、今も爛々とマリーウェザーを絡め取ろうと輝いていた。

 動悸が早く、息苦しさを感じた。早く解放されたい。けえど、ボロを出すのは駄目だ。

 ふと、ランティスが、言った。



「お前は、どう思う」



 最初と同じ問いだった。

 マリーウェザーは、唇をぺろりと舐めた。いつの間にか乾いた唇の凹凸に、唾液が沁みる。



 ―――この問いに答えるまで、解放されないのだろう。



 鼻から大きく息を吸い込み、同じように吐き出した。呼吸に合わせて痩せて平べったい肩が揺れる。



 さあ、正念場だ。「私は」



「マリーウェザーは、そんな主人を選ばない」



 ランティスの唇が、僅かに震えた。何かを口にしようとし、結局声にはならなかった。

 急に興味を失ったように、彼は天井へ視線を戻した。瞼を閉じ息を吐くと、追い払う手つきで手首を揺らす。

 その場で雇い主に対する礼をすると、足音もさせず、メイドは部屋を後にした。

 

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