第52話
泣いてる。
丸まったあの背中が、泣いてる。
泣いているのは…お兄ちゃんだ。
背中を向けて、床に蹲って、震えながら、独りで泣いてる。
ボサボサの髪の毛をふるふると揺らしながら、声を殺して泣いてる。
お兄ちゃん、て呼びたいのに、声が出ない。急いで側に駆け寄って、泣いてる背中へ抱きついた。頭をぐりぐりと押しつけて、私がいるよ、と一生懸命伝える。
お兄ちゃんは、こちらを振り返らない。
真っ暗な床の上に、瓶底眼鏡が転がっていた。レンズが汚れている。赤黒い汚れだ。
悲しくなった。
もっとぎゅっと抱きしめるのに、お兄ちゃんは全然こっちを向いてくれない。それがまた、悲しいけれど、泣かないように顔に力を込めた。
泣いてもいいよ。
哀しいなら、痛いなら、苦しいなら、辛いなら…いくらでも泣いて。
私が守ってあげるから。
泣いてもいいよ。
私はもう泣かない。ぎゅって唇に力を入れて、ぐっと眉間に力を入れて、涙が流れないようにしているから。
代わりに、お兄ちゃん、好きなだけ泣いて。
泣いていいよ。
泣いていいの。
だからお願い。
―――死にたいなんて、言わないで。
どろりとした睡魔が、不意にルーヴァベルトの手を放した。
高いところから落ちた衝撃に似た感覚に、ぱちりと眼を覚ます。寝起きでぼやけた視界は、二、三度瞬きをすると、徐々に輪郭を取り戻した。薄暗い中に、天井のクロスがぼんやりと見える。ここはどこだったか、と滲む思考がゆっくりと巡る。
夢を見ていた。
けれど、内容は思い出せない。最後は夢の中から弾きだされた気がする。
悲しいような、苦しいような…漠然と胸が締め付けられる後味の夢。不快なわけではなく、ただただ切なさが胸に残る。
それを嚥下するように、ゆっくりと息を吸い込んだ。同時に、顔に鈍い痛み。
「おはよう」
柔い声が聞こえ、そちらを見やった。
燭台の蝋燭が、淡い朱で揺れている。薄闇の中の、灯りに照らされ微笑んでいるのは、兄のエヴァラントだ。
いつも通り、ボサボサ頭に瓶底眼鏡。レンズは蝋燭の光を吸い込み、白く反射している。
兄貴、と呟いたルーヴァベルトが、両手で眼を擦る。その頃には、顔の痛みの他に、全身のチリチリ引きつる痛みを思い出していた。何の痛みだったかとぼんやり宙を見やり、大立ち回りを思い出す。
思い出すと、ぐううと腹が鳴った。
「…腹減った」
苦笑交じりにエヴァラントが首を横に傾けた。
「夕食の時間は、とっくに過ぎているからね」
「一食、食べ損ねた」
「大丈夫。ちゃんと用意してくれているよ」
その言葉に、またぐうと鳴る。情けない音に、ルーヴァベルトは腹を撫ぜた。
微かに聞こえる寝息に、横を見やる。隣のベッドで、ばあやが穏やかな顔で寝入っていた。
あのままばあやの部屋で眠ってしまったのか、と眼を瞬かせた。ということは、これはマリーウェザーのベッド。どれくらい眠っていたのかはわからないが、このまま占領しているわけにはいかないと、身を起こした。
ベッドの上に座り、一つ、大きく伸びをする。動くたびに顔に違和感を覚えるが、そのうち腫れも引くだろう。それよりも、ちゃんと食事はできるか心配になり、口を開けたり閉めたりして動きを確かめる。やはり頬に痛みがあった。しかし、食事には問題なさそうだ。
「兄貴は、もう食ったの?」
ベッドから降りつつ、尋ねた。
彼は黙ったまま、じいと妹の姿を見つめていた。
ゆったりとした黒い服を引っ張り、肌触りを確かめている。生欠伸を噛み殺し、乱れた髪を無造作にくくり直すルーヴァベルトの姿を。
「今日は何かなぁ」
返事がない事を特に疑問にも思わず、独りごちる。「肉だといいなぁ」と、宙へ思い浮かべた料理に、顔を緩めた。
「兄貴は何だと思う?」
不意に視線をエヴァラントへ戻した妹は、痛々しく腫れた顔で、ふわりと笑んだ。赤茶の双眸が、いつも通り、真っ直ぐに向けられる。
困った顔でエヴァラントが首を傾げた。「俺は、何でもいいよ」
返しに、つまらないと眉を寄せたルーヴァベルトだったが、すぐに忘れ、そのまま歩き出す。
部屋の灯りは枕元の一つだけ。他は、眠る二人を気遣って落とされていた。薄暗い闇が支配する室内を、けれどルーヴァベルトは惑わず進む。
するりと寝室を出て、真っ直ぐ廊下に続く扉へと向かう妹を、燭台を手に追いかけた。
「ルー」
ドアノブに手をかけた妹を、後ろから呼んだ。
薄闇の中で、少女が振り返った。黒に肌の色だけが浮き上がって、赤茶の双眸は僅かな光を吸い込んで、きらりと輝いて見える。
続きを待つ妹に、エヴァラントは口を開き…結局、噤んだ。情けなさそうに口端に笑みを浮かべると、その場に立ち止る。
「…痛くは、ない?」
刹那、ルーヴァベルトの猫目が、僅かに見開かれた。
が、すぐにくっと細め、呆れた様子で肩を竦めた。
「馬鹿だな、兄貴」
さっさとドアノブを引き、扉を開く。途端、廊下の光が部屋に差込み、細長い灯りがルーヴァベルトを、少し離れて立つエヴァラントの顔を照らした。
光の中へ、彼女は颯爽と踏み出す。黒髪が深い緑のように艶めき、その下の肌は、赤く腫れて歪んでいた。
彼女は睨むような眼差しを兄へ向け、薄闇の中へ手を差し出す。
「これくらいの事じゃ、私は、泣いたりしねぇよ」
瓶底眼鏡のレンズが光で反射し、エヴァラントが果たしてどんな表情をしているのか、見えはしなかった。
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