第50話-2

 汚水の臭いが鼻をつく。

 湿った地下牢の壁に、苦痛の呻きが閉じ込められる。天井からは、冷たい雫が滴り、耳障りな音をたてた。


 地下牢を照らす仄かな灯りは、数本の蝋燭だけ。心もとなく揺れる火の中、向き出しの煉瓦に転がされた男たちは、赤に塗れた芋虫のようだ。

 反抗も逃走も許さぬと、手足の骨を折られていた。抵抗する気力も失せた侵入者は、今はもう、ただ惨めに赦しを乞い続けている。


 その様子を、憐憫の情などちらとも浮かばぬ灰青の双眸が見下ろしていた。

 後ろには、灰髪に執事服の男。並んで、メイドのお仕着せに身を包んだ三つ編みの痩せぎす。転がった男たちの側には、くるりと巻いた黒髪の少年がしゃがみ込んでいる。


 不意に、赤髪の男が、その場にしゃがんだ。

 目の前で呻いている男の顔を覗き込み、無表情に眼を瞬かせる。硝子玉のような双眸は、じいと相手の瞳を見据えた。息がかかる距離に、相手の男が怯え身を固くする。



「なぁ」と低い声が、問うた。



「お前ら、何でうちに勝手に入ってきた?」



 抑揚のない言葉は、狭い室内に反響し、消える。ことり、と首を横に倒したランティスは、もう一度繰り返した。



「何でだ?」



 男は怯え、血で汚れた顔を、いやいやと横に振った。



「す、すまねぇ…こんなつもりは…」


「何でだ?」



 必死に謝罪を口にするも、ランティスは同じ問いかけを繰り返すばかり。その顔からは、何の意図も読み取れない。ごっそりと感情の削ぎ落された面の如き表情は、ただ淡々と言葉を繰り返すだけ。



「何で?」



 恐怖に強張っていた男の顔が、徐々に異なった怖れで震えはじめた。餌を強請る魚のように開閉を繰り返す口端には、泡立った涎が垂れていた。



「何でだ」

「…さ、さっき、全部、そこのガキに言ったよぅ!」



 悲鳴は、泣き声だった。



「ここの屋敷にいる黒髪の女を殺せば、金をやるって言われたんだ!」



 公娼街の端、安い料金で病気持ちの妓が抱ける店で、ちびちびと酒を飲んでいた時だという。店に不釣り合いな良い身なりの女が声をかけてきたらしい。



「顔に頭巾をかぶった女だ。屋敷の貴族と恋仲だったが、顔に火傷を負って捨てられたと言っていた。相手の男は自分を捨てて、すぐに他の女を囲い込んだって…それを恨みに思ってるから、女を殺して欲しいって頼んできたんだよ!」



 新しい恋人は長い黒髪だから、と。

 前金をたんまり貰ったのだと、男は喚き続ける。成功すれば、前金の三倍を支払うと言われ、仲間を集めて来たのだと。

 そこまで言うと、額を床にこすり付け、必死に懇願を始めた。



「旦那、ああ旦那様! どうぞご慈悲を! 俺には乳飲み子抱えたカカァが家で待ってるんだ! 旦那様ぁ!」



 在り来たりな命乞いだ、とマリーウェザーは双眸を細めた。ヘーゼルグリーンの瞳が、汚物を見るように、冷やかに男へ向けられる。男は気づかず、汚れた涙で下卑た笑いを浮かべていた。



「俺らにゃ、旦那様のような金がねぇ。こうでもしなけりゃ、カカァやガキを養っちゃいけねぇんです。生きるのもままならねぇんだ! どうぞ、どうか、ご慈悲を下せぇ!」



 今度はぐいと顔を上げ、仰け反る様にランティスを見上げる。媚びへつらう濁った眼が、蝋燭の朱に照らされ、爬虫類に似て輝いた。

 ぱちり、と灰青の双眸が瞬いた。「そうか」と呟く。



「だから、俺の女を殺そうとしたのか」



 全く動かぬ表情は、無のままに、俄かに見開かれた双眸だけが爛々と生き物めいている。それはどこかちぐはぐで、男はヒッと悲鳴を飲み込んだ。



「仕方がないな」と、淡々と続ける。



「お前は、金がなく、こうでもしなければ、生きていくこともままならない」



 仕方がない、と繰り返した。



「仕方がないんだよな。俺の女を殺すのも、仕方がないこと、だ」



 首を伸ばし、男に顔を近づける。震えることも恐ろしいのだろう、微動だにせず固まった相手の口元からは、ただ涎だけが汚らしく糸を引いていた。



「だから、お前は、わかってくれるんだろ?」冷えた声が、煉瓦の壁に、床に、反響する。



「俺がお前を殺すのも、仕方ないんだって」



 ひゅっと男の喉が鳴る。声も出せず、ただ口元が戦慄いていた。濁った瞳が揺れている。恐怖に犯された瞳が、揺れている。

 助けを求める様に、後ろに控える従者たちへ視線を向けた。

 しかし、灰髪の執事は、主人と同じ程凍えた金の瞳を宙へ向け、決して男を見ようとしない。

 太い三つ編みのメイドは、小ぶりヘーゼルグリーンの瞳に、侮蔑の色を浮かべ、男を睨めつけていた。

 味方など、いない…助からない、と本能が全身を泡立たせた。



「仕方がないよな」もう一度、ランティスが繰り返した。



「お前を放っておいたら、また、お前の家族の為に、俺の女を殺しに来るだろ?」



 しない、と叫びたかった。

 喉が張り付いて、擦れた呼吸音しか出なかった。

 代りに、乾いた目から涙だけが溢れる。

 ゆっくりと、倒していた首を真っ直ぐに戻すと、灰青の双眸を瞬かせた。



「仕方がない」



 そう言うと、緩慢な動作で立ち上がる。

 踵を返し地下牢を出ていく赤髪は、二度と、振り返ることは無かった。

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