第45話

 執務室の扉をノックしようとした瞬間、中から悲痛な涙声が響いた。



「お願いですからこの書類だけは終わらせて逃げて下さい!」



 ああまたか、とアンリは苦笑いを浮かべ、そっと扉を押した。

 中に入ると、途端、男が男へ縋りつく場面に出くわす。予想通りではあったものの、思わずアンリは吹きだした。



「可哀相なことになっているわねぇ」



 のんびりとした調子で声をかけた。すると、もみ合っていた二人が同時に顔を彼へ向ける。

 縋りつかれていた男…ランティスは、友人の姿を見止めると、片眉を持ち上げ快活な笑みを浮かべる。



「よう、アンリじゃないか」


「ごきげんよう、ラン」



 片手を上げた赤髪の王弟へ、小首を傾げて見せた。それから、視線をもう一人へ落とす。


 友人の腰にへばりついているのは、こちらも見知った顔だった。


 濃い茶色の髪を長めに切りそろえた、色白な青年。見るからに育ちがよいとわかる雰囲気の、幼さの残る瞳は青。精悍というよりは可愛いと言った方が似合う顔を、今、涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして、アンリを見上げていた。

 ランティスと同じ軍服に身を包んだ彼の齢は二十歳。名を、アーベル。赤髪の王弟殿下の補佐官である。



「可哀想に」とポケットからハンカチを取り出すと、アンリは二人へ歩み寄り、アーベルの目元を拭ってやった。



「そうやってすぐに虐めるの、よろしくないわよ」



 きゅっと眉を寄せ男を見やると、彼は飄々と肩を竦める。



「虐めてねぇよ。ちょっと息抜きしてくるって言っただけだ」


「駄目です!」



 と、すぐにアーベルが裏返った声を上げた。上司の腰へしがみ付く腕に力を込めた。



「そう言って、絶対に戻ってこないんだ!」


「戻ってくるって」


「いいえ! 戻らないです!」


「信用ないわねぇ」



 呆れた調子でアンリがランティスを見やると、彼はむうと口を曲げ、不服そうに眼下の部下を睨んだ。



「戻るって言ってんのに、失礼な奴だな」


「そう言って、昨日も一昨日もその前も、何ならここ一週間毎日毎日毎日毎日戻ってこなかったじゃないですか!」


「たかだが数回で心の狭い奴だな」


「溜まってるんですよ、仕事が! 溜まってるんです! 絶対、今日は絶対に! 逃がしませんから!」



 涙目を、けれど血走った眼で睨めつけると、ぎゅうぎゅうと上司の腰を締め上げる。


 心底、可哀想に、と思った。ここに配属された当初は、内向的ながらも素直で真面目、青い瞳をキラキラと輝かせた大人しい青年であったというのに。

 それが今や、ひっくり返った声で上司に縋りつく幽鬼のようである。


 片手でこめかみを押さえ、アンリはため息をついた。



「諦めなさいな、ランティス。それとも、アーベルを腰にくっつけたまま、王城を歩く?」



 不満げに灰青の双眸を細めたが、結局素直に折れた。



「わかったよ。俺の負けだ」



 そう言うと、ぐちゃぐちゃな部下の顔を押しやり、書類が積まれた自席へ戻る。大仰な織物が張られた椅子へどかりと腰を下ろすと、眉間に皺を寄せたまま、アンリを見やった。



「それで、お前は何しに来たんだ」



 ほっとしてへたり込んでしまった青年を助け起こしてやりながら、アンリはにこりと微笑んだ。



「八つ当たりはよして頂戴。今日は頼まれた品を持ってきただけなんだから」



 そう言うと、手にした包みを、空いている机へ置く。

 だらりと椅子に背をもたれたランティスは、ああ、と目を瞬かせる。



「こないだのアレか」


「そう。本当は屋敷へ直接持って行きたかったんだけど、どうにも時間が取れなくて…。これを使って彼女にばっちりがっちりなお化粧をしてあげたかったわぁ」


「あいつは嫌がるだろうけどな」



 話題に機嫌をよくしたのか、くっくと喉を鳴らす。相変わらず猫が笑う様な顔な友人に、アンリは菫磯の双眸を細めた。女性めいた細い顎を、華奢な指先で撫ぜる。



「でも、夜会に出るなら、あのお化粧じゃ駄目よ。煌びやかな明かりと、派手なドレスで顔がくすんじゃう。きちんと場にあったものをしなきゃ」


「一理あるな」


「でしょう。見た目ってのは大事なのよ。特に初見で相手に強く出たいなら、それなりに武装しなきゃ」


「確かに」



 置いた包みをポンと叩くと、アンリは言った。



「中に、おすすめの化粧の仕方について書付を入れておいたわ。あんたの所のメイドは優秀でしょうけど、この分野は私の管轄。折角なら最大限に活用して欲しいの」


「伝えよう」


「よろしくね」



 綺麗な顔でにこりと微笑む。


 いつの間にか茶器のセットを持ってきたアーデルが、アンリへ椅子をすすめた。礼を述べて腰を下ろすと、側の卓上へティーカップが置かれる。淹れたての紅茶の香りが鼻腔を擽り、ほっと嘆息した。

 ソーサーごと手に取ると、指を添えてカップを持ち上げ、一口飲んだ。ミルクのたっぷり入ったミルクティーだ。ランティスの意向により、彼の執務室で出されるのはミルクティーと決まっている。程よい熱さの味わいに、ゆっくり目を瞬かせた。

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