第44話
その日、座学や他のレッスンで、どれも褒められた。曰く、「とても集中力があり、普段より進みがよかった」とのことだ。
実際その通りであった。
目の前の事に集中していなければ、どうしても朝の一件について考えてしまう。
エーサンに会えるかもしれない―――それは、予想以上にルーヴァベルトを浮足立たせた。
同時に、気取られてはならない、とも強く思う。何故かと問われればはっきりと答えられないので、ルーヴァベルト自身、どうしてそう思うのか不思議だった。
ただ、ハルに「御引き合わせします」と告げられた時、エーサンの顔と共に、赤髪の彼の男の姿も脳裏を過った。記憶の向こうで、手の甲へ口付た彼の言葉が甘く響く。
―――好きだ
恍惚な表情。
なのに、泣き出しそうにも見えた。
絡められた指の感触は、今も生々しく肌に残る。
ぞわりと背筋を駆ける冷たさに、ただ漠然と、知られてはいけないと思うのだ。
務めて無表情に、音楽に合わせダンスのステップを踏むルーヴァベルトを、相手役を務めるジーニアスが、蜂蜜色の双眸でじいと見ている。俄かに訝しさが滲む視線に気付かぬふりをして、未だヒールに慣れぬ足で必死に踊り続けた。
夜。
眠ってしまった空には、欠けた月。瞬いているのは、小さな白い星だ。
夕食後、入浴を済ませたルーヴァベルトは、普段通りベッドへ潜り込んだ。ミモザは既に下がっており、今は寝室に自分一人だけ。
しんとした室内には、耳に痛い静寂。窓の向こうでは、微かに風に揺れる枝葉の音がしていた。そこに混じるのは、ルーヴァベルトの心音。
もうすぐ、約束の刻限だ。
そっとベッドから這い出ると、私物入れから履き潰したブーツを取り出した。それを履き、窓辺へ寄る。注意を払いながら窓を開け、夜の景色を見回した。今夜の月は明るい金色。おかげで闇は薄く、随分と明るい。
見つからぬように気をつけねば…きゅっと唇を引き結び、夜着の裾を捲り上げ、腰で結ぶ。ドロワーズが丸見えになるが、気にせず木へ飛び移った。
するすると慣れた調子で下へ降りる。地面へ降りると、音をさせぬよう注意を払いつつ、約束の場所へと走り出した。
鬱蒼とした夜闇を、ぐるりと見回した。
丁度、木々の間から、空に浮かぶ欠けた月が覗く。金の月光は明るいが、それでもここは闇が深い。
早かっただろうか、と、木陰に身を潜めた。万が一、他の誰かに見つかってはまずい。
息を潜め、周りの気配に集中する。虫の音と、遠くに梟の歌声。足元では、ブーツに這い上がる蟻が見えた。
夜着に土がつかぬよう裾を手で払った時、かさり、と葉が擦れる音がした。
はっと顔を上げ、音のした方へ視線を向ける。闇に慣れてきた目を凝らすと、黒い人影がぬうと現れた。
相手が誰か見極めようと眼を細めた。その時、人影の後ろに、もう一人分の影が並んだ。
途端、弾かれるように立ち上がると、少女は木陰から飛び出した。
「先生!」
心のままに、声を上げた。誰かに聞かれるかもしれないなんて考える余裕もなかった。
勢いよく飛びつかれた相手は「わぁ」と小さく声を上げる。けれど、しっかりとルーヴァベルトを抱きとめた。
見上げると、暗がりの中、月明かりの弱い光に浮かび上がる懐かしい顔が見えた。長い前髪に不精髭の男。右の頬にはえくぼ。
「先生…」
じんわりと胸にこみ上げる気持ちに、男の胸へ額をぐりぐりと押しつけた。彼は優しくルーヴァベルトの頭を撫ぜる。少しだけ躊躇いを含んだ、そんな手つきで。
「ルーヴァベルト様」
呼ばれ、顔を上げた。隣に下がり眉の少年が立っている。
相変わらずの困り顔、しかしハルはにこりと微笑んだ。
「来て下さってありがとうございます」ぺこり、と頭を下げる。
やっとエーサンから離れたルーヴァベルトは、顔を横に振った。彼に一歩近づくと、その手を握る。
「ありがとう」
自然と笑みが浮かんだ。黄金の光が少女の顔を照らし、笑んだ表情がハルの視界に飛び込んでくる。あ、と声を上げた少年は、夜目にもわかる程紅潮し、固まった。
けれど、ルーヴァベルト自身、そんなことには気づかない。
視線をエーサンへ戻すと、小さく頭を下げた。
「すみませんでした、先生。何の挨拶も出来ぬまま、辞めることになってしまって…」
「お前のせいじゃない」
頭を振った男は、おっとりとした口調で続けた。
「婚約したと、聞いた」
「…」
「おめでとう」
思わず顔を背けたルーヴァベルトは、下唇を噛む。何だかもやもやと嫌な気分になった。
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