第43話

 葉擦れの音がする。


 朝を駆ける風は、さわやかに肌を撫ぜ心地よい。ルーヴァベルトは深く息を吸い込んだ。

 ゆっくりと、いつも通り鍛錬の動きをなぞってゆく。全身を巡る血液の流れを感じると、心が凪いでゆく。この時間が好きだった。


 一通り流し終わると、一人、礼を取る。

 緩慢な動作で頭を垂れ、顔を上げると、顔にかかる髪をかき上げた。さらり、黒髪が揺れた。


 不意に気配を感じ、視線を後ろへ投げた。

 眉を顰め、双眸を細める。瞬間、赤茶の瞳に、不自然に揺れる低い枝はが見えた。

 誰かいる…思うと同時に、全身に意識を巡らせる。


 相手は誰かわからない。


 動物…いや、使用人だろうか。執事殿だったらどうしようと、嫌な予感が頭を過る。

 いっそ全速力で逃げるか、と、そんな考えが頭を過った時、木陰からぬっと人影が現れた。

 やっぱり逃げよう、とくるり背を向けた時だった。



「待ってください!」



 聞き覚えのない声が、ルーヴァベルトを呼び止める。「お話があるのです!」

 乞う様な響きに、反射的に振り返ってしまった。

 視界に飛び込んできたのは、黒髪の巻き毛をした少年の姿だ。



「ルーヴァベルト様」



 足元へ転がるように飛びついてきたのは、先日顔を合わせたばかりの庭師だった。

 くるくると巻いた柔らかな黒髪越しに、きょろりと大きな碧眼が覗く。鼻の頭にはそばかすが浮いていた。



「どうか、少しだけ! 少しだけお時間を!」


「お前…」


「お願いします!」



 よくわからないが、酷く必死に腰にしがみ付いてくる。わかったから、、と慌てて引っぺがした。


 改めて、地面に正座させられた庭師の少年が、ぺこりと頭を下げた。



「おはようございます、ルーヴァベルト様」



 齢十七歳、名はハル。


 数日前顔を合わせた際は主に頭を下げるばかりで気づかなかったが、歳の割に幼く見える少年だった。丸顔で背が低いためだろう。困ったように垂れた眉尻のせいで、怯えた子鼠のようだ。


 彼は上目遣いにルーヴァベルトを見やると、もぞもぞと口の中で何事か呟く。



「その…突然御引き留めして、すみません…」


「はぁ」


「ええとですね…その」



 はっきりしない物言いに、ルーヴァベルトは双眸を細めた。要件があるならば早く言って欲しい。そろそろ戻らなければ、ミモザが起こしに来てしまう。

 しばらくもじもじとしているハルが続きを話すのを待っていたが、とうとう痺れを切らし、ため息をついた。



「悪いけど」と踵を返す。



「そろそろ戻らないと。ここにいること、バレたくないんだ」


「え」


「あ、できれば私がここにたこと、誰にも言わないでくれると嬉しいんだけど」


「ま、待って下さい!」



 慌ててハルが取りすがる。いやいやと首を横に振った。



「話が…」


「だってお前、全然話さないじゃん」


「今、話します!」



 庭師を引きづったまま歩き出したルーヴァベルトに、裏返った声を上げると、一人の名前を口にした。



「エーサン!」



 それに、ぴたり、足を止める。

 え、と怪訝な表情で少年を見やった。



「…何だと?」



 何故、彼の人の名前を。

 公娼街にいるはずの師の名前に、心が疼いた。庭師の肩を掴んで身体から引っぺがすと、その顔を覗き込んだ。碧眼の瞳が驚きに見開かれている。



「先生を知ってるのか?」


「は、はひっ!」



 大きく頷くと、声を潜めた。



「あの、僕、旦那様のご命令で、ルーヴァベルト様の代わりにソムニウムでお世話になっておりまして」


「まさか、お前が?」


「あああ僕なんかが代わりって心もとないですよね! すみません!」


「そんなことはいい。先生が何だ」


「あ、はい! 実はソムニウムでエーサン様が僕の世話をして下さっておりまして」


「先生が? じゃ、お前、用心棒…え?」



 まじまじとハルを見やり、更に怪訝そうな顔をする。それもそのはず、どう見ても庭師の少年は腕が経つように見えなかった。先程からの身のこなしは、どちらかといえばどんくさい。

 心の内がわかったのか、小さな声で「すみません」とハルが呟いた。下がり眉が更に下がっていた。



「まあいいや」と、ルーヴァベルトは頭を振った。



「それで?」


「あ、はい。エーサン様は、ルーヴァベルト様のことを、凄くすっごく心配していらっしゃいまして…」



 その言葉に、ルーヴァベルトは胸が詰まった。


 あの夜、忍んで向かったソムニウムでエーサンに会えなかったことは、ずっと心に引っかかっていた。この屋敷から自由にでることができない今、最悪二度とエーサンに会うことはできないかもしれないと、そう思って。


 名前を聞いた途端、抑えていた里心が溢れてきた。


 きゅっと眉を寄せ、やっと絞り出せた言葉は「そうか」だけだった。

 下がり眉は綺麗な空に似た碧眼をしぱしぱと瞬かせると、小さな声で続けた。



「…一目会いたいと、仰っています」



 弾かれたように顔を上げる。

 少年と眼差しが重なると、困り顔のまま、それでも大きく頷いた。顔を寄せ、耳打ちをした。



「御引き合わせします」



 一度だけ。

 ルーヴァベルトの赤茶が、驚愕で見開かれた。まさか、と口の中で呟く。

 意図せず拳を握りしめた。その拳へ、ハルが手を重ねた。予想外に皮の厚い掌だった。



「今晩、月が空の天辺に昇りましたら、もう一度ここへ」



 少年の声を隠すように、葉裏を渡る風が、音を鳴らす。

  

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