第42話
馬車が、と低い声で御者が告げたのに、窓の覆いを捲った。
屋敷から門へと向かう道を、空を燃やす夕陽が照らしている。毒々しい赤から抜け出すかのように、向かいから黒毛の引く馬車が一台。
見覚えのあるそれに、ジュジュはきゅっと眉を寄せた。
「停めて頂戴」
低く命じる声に従い、ゆっくりと車輪が動きを止めた。静かになった車内に、砂利を進む音が近づいてくるのが聞こえた。
やがて、砂利を踏む馬蹄の音と共に、馬車が停まる気配がする。馬が小さく嘶いた。
膝の上に置いた巾着から、扇を取り出す。真珠色の地に萌葱の糸で刺繍が施されているそれを開くと、顔を隠し、窓を覆う布を捲った。
隣にぴたりとつけられたもう一台の馬車の窓も、黒い覆いで隠されていた。が、すぐに捲られ、暗い車内に揺れる赤い髪が見えた。
覗く横顔に、すうと双眸を細める。
「よう」と低く甘い声が、朱に染まる空気に響く。
涼しげな灰青の視線が窓越しにジュジュを捕え、皮肉めいた笑みを口元へ浮かべた。
「久しぶりだな」
「本当に」
冷たく言い放つと、面白そうにランティスは喉を鳴らした。
「何だ、機嫌が悪いのか」
「あら、気付かれまして?」
「おっと…その言い草、俺が怒らせたんだな」
全く心当たりはないが、と男が言うので、ジュジュは更に声色を低くする。
「どの口が」
扇で隠しているが、漏れる気配が怒りに満ちていると気付き、更にランティスは楽しげだ。
本当にこの男はどうしようもない…と、内心舌打ちをした。幼少時からの付き合いだが、昔はもう少し可愛げがあった気がする。
気を落ち着けようとゆっくり呼吸をすると、「婚約式のこと」と切り出した。
「ルーヴァベルト様はご存じありませんでしたけれど」
「…言ってなかった…か、な?」
「言ってなかったですわね」
「言ってなかったですか」
「いい加減、他の人間に尻拭いさせるのはおやめになったら如何かしら」
刺々しく言い放つと、思うよりも愁傷に「すまん」と返事があった。
「言い訳ではあるが、他に優先させねばならん事が多すぎてな」
「言い訳だとわかってらっしゃるなら、黙っていらっしゃった方が粋でしたわ」
「レディ・ジュジュ。お前は本当に容赦がないな」
それが小気味よい、と付け加えた。
ジュジュは笑うふりをした。合わせて扇が揺れる。隠した口元は引き結ばれ、ふくよかな頬は固く、笑みは消えたままだ。
そういう言葉で煙に巻こうとしても、そうはいかない、と口を開いた。
「ルーヴァベルト様の社交界デビュー…ガラドリアル家の夜会だそうですわね」
ちらと横目で隣の馬車内を窺がう。間に差し込んでいた朱の光は、闇を含んで少し暗い。その向こうに、赤さを失わない王弟の髪が見えた。
口元は、相変わらず弓なりに笑う形。
よりによって、とため息交じりにジュジュは呻いた。
「ガラドリアルなどと…初っ端から敵地へ放り出すようなことを」
「面白いだろう?」
「全く」
凍えた返事に、くくくと喉を鳴らす。
ガラドリアルは、フロース五家の一つ。
家紋は…桔梗の花を模す。
「貴方が勝手に婚約者を迎えたなど、あの家が許すはずない」
「俺は親友の誕生祝に行くだけだ」
「ガラドリアルの息子など」
ぱちん、と扇を閉じた。丸い顔を目いっぱい顰めながら、窓へ寄った。
「そもそも…」
「レディ・ジュジュ」
尚も言い募ろうとする言葉を、低い声が遮る。甘い響き、けれども有無を言わせぬものに、ジュジュはきゅっと唇を噛んだ。
緩慢な動作で、相手が窓へ寄った。初めて顔がジュジュへと向けられる。
灰青の双眸が、やんわりと弧を描いて笑みを作る。
「お前の気持ちもわかる。ガラドリアルを嫌う心も、な」
「…」
「だが、それが俺の友人を貶めて良い理由にはならん」
ランティスは微笑んでいた。対し、越えは凍えて聞こえた。
逆鱗に触れたか、とジュジュはそっと瞼を伏せた。
「俺とお前は、お互い、利害関係が一致している。そうだろ?」
「…ええ」
「俺の選択は、お前自身の望みに対し、決して害にはならん」
望み。その言葉に、ジュジュは眉を顰めた。それを隠すように、眉間を押さえる。心を鎮めようと、柔らかな頬に手を添えた。
己自身の望み。
(そうだわ)
そのために、自分はこの役目を引き受けたのだ。
決して、ルーヴァベルトに同情するためでは、ない。
唇を窄め、細く息を吐いた。震えぬように、ゆっくりと。
「結構ですわ」
再度扇を広げると、口元を隠しつつ顔を背けた。それを合図に、隣の馬車の覆いが降りる。
同じく窓の覆いを戻すと、ゆっくりと馬車が動き出した。
揺れる車内で、進む車輪の音と共に、もう一つの音が遠のいてゆくのが聞こえる。朱の夕暮れもまた、明日の向こうへと消えようとしていた。
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