第39話
大きく伸びをしたルーヴァベルトが、欠伸をしながらベッドに転がった。
そのまま寝息をたてはじめ、内心、エヴァラントは焦る。ここで寝る気か、と慌てて起こそうと顔を覗き込んだ。
結局、起こすことは出来なかった。
驚く早さで眠りの底へ落ちて行った妹は、まるで無防備に、あどけない表情で瞼を伏せていたからだ。
額にかかる艶やかな黒髪を一撫ですると、掛布団をかけてやった。
(俺は向こうで寝るか)
部屋が二つに分かれていてよかった、と腰を上げた。
その時。
コンコン、とノック音がする。答える前に、勝手に扉が開かれた。
「邪魔するぞ」そう、部屋に滑り込んできたのは。
「…ラン、君」
知らず息を飲んだエヴァラントへ、赤髪を揺らしながらランティスは大股に歩み寄った。白いシャツに、肌触りのよい布地で縫われたズボンと言う夜着姿は、彼もまた寝入る前だったのだろう。
いつも通り、にんまりと三日月に孤を描く口元。対して、灰青の双眸は冷え冷えとエヴァラントへ向けられている。
「夜分に悪いな」
低い言葉は滑る様に響いた。視線同様凍えた音に、エヴァラントは曖昧な表情を返す。さして気に留める様子もなく、彼はちらとベッドを見やった。
そこに横たわる婚約者殿の姿に、すうと目を細める。
瞬間、纏う空気が重くなった気がして、ボサボサの黒髪をぴょんと揺らし、慌ててエヴァラントが口を開いた。
「あの、これは…」
「ああ、いい」
片手を上げ相手を制すると、すいと眠るルーヴァベルトの顔を覗き込む。すうすうと軽い寝息を立てる少女の姿に、口元から笑みが消えた。息を一つ、吐き出す。
ランティスにとっては、初めて見る寝顔。普段のしかめっ面は形を潜め、安らいだ表情は無防備で…それが、胸をチリチリと鈍く焼いた。
痛みを奥へ押し留めるよう、息を吸う。花に似た香りは、石鹸だろう。
軽く肩を揺すってみるが、彼女は起きる気配が無い。
ならば、と身体の下に腕を差し入れると、壊れ物を扱う仕草でそっと抱え上げた。拍子に、だらりと彼女の腕が落ちる。身体の重心まで持って行かれぬよう、大事に抱き寄せると、いとも簡単に頭が胸へ寄りかかる。
ぞわり、と泡立つ高揚感に、知らず笑う形に顔が歪んだ。
―――このまま、抱きつぶしてしまえれば。
腹の奥底で鎌首を擡げた物騒な心を仕舞い込むと、今度はにこりとエヴァラントを見やった。
「部屋に戻す。お前も、もう休むといい」
「…あ」
「悪いが、兄妹だからと、他の男の部屋で惚れた女が眠るのを許せぬ程度に、狭量なのだ」
明るく言い放つ表情の消えた瞳は、じいとエヴァラントの様子を伺う。
それがわかったのか、僅かに身じろぎ、瓶底眼鏡の奥の双眸を伏せた。ボサボサの頭をゆっくりと横に振ると、「申し訳ない」と小さく謝った。
ふん、とつまらなそうにランティスが鼻を鳴らした。腕の中の少女が、顔にかかった黒髪をむずがって眉を顰めるが、すぐにまた穏やかな寝息をたてはじめた。
視線を落とす赤髪の男は、その様子に蕩けるような表情を浮かべる。対して少女の兄は、眼鏡の奥から暗い眼差しを二人へ向けていたが、男がそれに気づくことは無かった。
不意に、ランティスが顔を上げた。
何を思ったか、先程までの表情がごっそりと抜け落ちた顔で、無感情な視線をエヴァラントへ投げた。歪みのない顔は、はっとする程に美麗であったが、硝子玉の瞳にすら感情が見えない様子は、どこか人間離れして思える。ぞっと背筋に悪寒を感じ、エヴァラントは両の拳を無意識に握りしめた。
「なぁ、エヴァラント」無表情のまま、男が言った。
「お前は、見えているのだろうが、俺は、ルーヴァベルトに惚れている」
投げられた言葉に―――エヴァラントが、息を飲んだ。
刹那、ひりひりと焼け付くような空気を感じ、ランティスは目を細めた。これは凄まじいな、と小さく独りごちる。
あからさまな、敵意。
目の前に立つボサボサ頭、瓶底眼鏡の男。いつもの柔い雰囲気はどこにもなく、想像も出来ぬ程重い空気を発し、そこに立っていた。
一瞬で向けられたそれに、やっと、ランティスが嗤う。見開いた灰青を、愉快そうに相手へ向けた。
「安心しろ」
低い声…どこにも甘い響きも含まず、王弟は小首を傾げる。
「先に言ったろ? 俺が欲しいのは、こいつだけだ」
男は答えない。
腕の中の少女を愛しげに見下ろしたランティスは、指先で彼女の頬を軽くなぞった。
愛しい愛しい、娘。
ほんの一時、この腕の中にあるだけで、こんなにも幸せで。
「わかってんだろ」と、視線はルーヴァベルトへ向けたまま、歌うように告げた。
「知ってたから…。お前だって、俺を選んだ」
だろ、と改めて彼を見やると、男は黙ったまま、口を引き結び、そこに立つ。瓶底眼鏡の奥の瞳が、一体どんな色を宿しているのかはわからない。
気にもならなかった。そもそも、エヴァラントはランティスの興味の対象ではない。
外からそれがどう見えるかも含めて、だ。
もう一度ルーヴァベルトを胸へ引き寄せ、ゆっくりと揺らさぬよう、出口へと歩き出した。
「因果な話だな、エヴァラント・ヨハネダルク」
嗤うように、どこか憐れむように、ランティスが口にする。「お前に、罪など何もないというのに」
扉へと向かう赤髪の男の背を眼で追い、エヴァラントはくっと歯を食いしばった。動きに合わせ揺れる長い黒髪と、すらりと伸びた足が見える。
行ってしまう―――それに、意図せず、言葉が零れた。
「お前もな…失せし王の、愛し子殿」
扉の前で、男が立ち止った。僅かに振り返った横顔は、音もなく、嗤う。
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