第40話

 話を聞いたジュジュは、まぁ、と目元を綻ばせた。



「デジニアであれば、安心ですわね」



 ふっくらと柔らかな頬に手を添え、ほうとため息をつく。「一体どんなドレスかしら…楽しみだわ」



 反してルーヴァベルトは興味なさげに相槌を打った。そんなことよりも、目下家庭教師殿の出された課題に取り組まねばならない。


 うんうんと唸り声を上げ机にかじりつく教え子を余所に、ジュジュはふんわり夢見心地にドレスのことを考えているらしい。そんな彼女の今日の御召し物は、菫い色と薄いピンクに、真珠色のレースがあしらわれた柔らかなドレスだ。一つに纏めて結った髪には同じ色の花が飾られている。

 まるで絵本から抜け出してきた装いだが、いつものことながら似合っているのが凄い。



「ルーヴァベルト様の社交界デビューまで、後一か月足らずですわね。とっても楽しみ!」


「私は気が重いです」



 げんなりした表情を浮かべたルーヴァベルトに、ふくよかな身体を揺すり、ジュジュが笑う。



「気弱なことを」


「前よりは幾分マシですが、それでも令嬢と言うには程遠い気がして」


「ルーヴァベルト様は優秀でしてよ」



 さっと課題の紙をとりあげると、中身を確認する。「あ」と声を上げた少女は、赤茶の眼を瞬かせ、情けなく眉尻を下げた。見直しが終っていないのだ。

 紙面上で視線を滑らせていたジュジュは、やがてにっこりと笑顔を教え子へ向けた。



「全問正解です」



 その言葉に、ほっと肩の力を抜く。最後の課題であったため、本日の座学はこれにて終了だ。やっと終わった、と手にした筆を置く。


 それを横目に、再度ジュジュは手にした紙へ視線を落とした。記載されている設問は、一般教養よりも少しばかり踏み込んだ宗教学。解答欄の文字は、所々乱れていた。

 ふむ、と花飾りを揺らし、首を傾げる。クセのある金糸が額にかかった。



「ルーヴァベルト様は、この手の分野が苦手でいらっしゃるのかしら」



 途端、彼女の顔が強張った。慌てて手を振った。



「いえ、十分及第点ですのよ。ただ、他の座学に比べ、ほんの少し…進みが遅い気が致しまして」


「ま、まずいでしょうか」


「いいえ、いいえ! 全くそのようなことは…ただ」



 紙を卓上に置くと、両手を頬へやり、恥ずかしそうに肩を竦めた。「これは、私の個人的な好奇心ですの」



 返答にほっとしたのか、ルーヴァベルトが息を吐く。そうですか、と頷くと、思案げに、赤茶の視線を宙へやった。


 僅かに顎を上向かせ何やら考え込んでしまった横顔を見やり、ジュジュは小さく息を吐いた。


 教師と生徒、という間柄になって、既に一か月が経とうとしている。

 王弟であるランティスが、彼女を婚約者だと屋敷に閉じ込めて、早一か月も経つのである。

 話を聞いた時、気に入りのカップを一客割った。優秀さに比例する駄目な男だとは思っていたが、今度はどんなくだらない遊びを始めたのか、と内心怒りが沸いた。既に家に連れ込む算段をしていると聞き、悲鳴を上げるところだった。自分の立場がわかっているのか、と。


 けれど同時に、ちろり、と好奇心が疼く。


 どんな裏があるかは知らないが、あの男が、女を家に入れる、など。


 結局、膨れ上がった好奇心にあっさりと負け、家庭教師の打診を受け入れてしまった。

 結果として、その判断は正解であったと言えるだろう。


 ルーヴァベルトは、存分に面白い存在であったからだ。


 最初に顔を合わせた際は、警戒心の強い、まるで野良猫のような娘だと思った。心の内は明かさない、周りに興味もない。その上、家庭の事情故、貴族として身につけて置くべき教養も作法も全く知らない。別段美しい容姿をしているわけでもなく、愛想もない。

 一体どこが気に入ったのかと訝しんだが…すぐに知れた。



 ―――彼女は、自分の婚約者となった男の名前すら、知らなかったのだから。



(世の中に、あの方に添いたい女性が、一体どれ程いることか…)



 微笑みを湛えたまま、心の内で独りごちた。


 容姿も、身分も、女性を惹きつける性質であるランティスは、嘘か真か、常に浮名を流しているような男だった。夜会へ出れば、我先にと女たちが群がる。それを嘘くさい笑みでいなしては逃げる…そんな実のない男だったが、致し方ない話であるともわかっていた。

 灰青の瞳は、何かを選ぶだけで、波紋を周りへと広げてしまう。波紋は、良くも悪くも誰かを傷つけてしまうのだと、親しい人間であれば、皆知っていた。


 そんな男が、選んだ娘。


 逃げられる前に、懐に囲い込み、がんじがらめにしようとした相手。


 落ちぶれた男爵家の貧乏娘は、ランティスの名前も、立場も、その双眸にかけられた呪さえ、何も知らず。


 一滴の興味もないようであった。それはきっと、今も変わらないだろう。

 彼女にとって、王弟殿下であるランティスと言う男は、至極面倒くさく、隙あらば逃げ出したい相手でしかないのだ。

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