第38話-2

 代りに、両手を広げた。



「中庭には、花が沢山咲いてた。一面色が溢れてて…今度、ばあやにも見せてあげたい」


「…それは、いいね」



 思わず漏らす。


 途端、ルーヴァベルトが兄を振り見た。不安げに寄せられた眉の下で、大きく見開いた猫目が、じいとエヴァラントを見上げる。

 真っ直ぐな視線に、瓶底眼鏡の奥で瞼を伏せた。見たくないものから逃げる術を、それしか知らないことが悔しい。


 ふっと、ルーヴァベルトの表情が緩んだ。


 口端が、笑う形に持ち上がる。本人は気づいていないだろうが、酷く柔く、幼い、笑み。



―――目を瞑っていても、「わかってしまう」自分が恨めしかった。




 少しだけ調子取り戻したのか、少女は兄の身体へもたれ掛ると、唇を尖らせた。



「兄貴もさ、最近忙しいみたいだけど、休みとれそうなら一緒に庭を見ようよ。ばあやと兄貴と…後、マリーウェザーも誘ってさ」



 夜着越しに妹の体温を感じた。ほんの数年前までは、こうして寄り添って眠ったものだ。同じ妹だというのに、今は全くの別人にも感じられ、憂鬱な気分になった。


 それを振り払うように、作り笑いを顔へ戻す。さも楽しげに、尋ねてみる。



「ラン君は?」



 誘わないの、と。

 途端、またもや渋面になったルーヴァベルトは、兄から身体を離した。舌打ち交じりに首を横に振った。



「いや…いいや」


「でも」


「あの人がいると、ややこしくなる」



 口ごもる妹に、ほんの少しだけ、胸に針が刺した。痛みをそっと押し隠すように、エヴァラントは口元で笑みを作り続けた。

 何があったかなんて、絶対に、聞きはしない。



「勉強の方はどう? 令嬢っぽくなれたかな」



 深くは問われずに話題が変わり、あからさまにほっとした様子のルーヴァベルトは、苦笑いで肩を竦める。



「どうだろう。お金持ちって大変だね。覚えることはたくさんあるし、制約ばっかで…兄貴のとこに来るだけで文句言われるとか」


「それが普通の貴族ってものだよ。うちが少し変わってただけ」


「私にとっては、それが普通だった」


「…俺も、だよ」



 やんわりと同意すると、彼女はすうと双眸を細め、笑んだ。

 嬉しそうに笑うその顔は、エヴァラントの眼には、やはり幼く映った。


 置かれた環境のせいで、随分早く大人になってしまった妹。自分がもっとしっかりしていれば、もっとずっと彼女は子供でいられたはずなのに。


 ふと、脳裏に苦い記憶が蘇る。


 フォルミーカ添いの古本屋で、馴染みの店主を前に泣いた夕暮れ。苦しくて、悔しくて、痛んで…悼んで。

 あの時の自分は、今のルーヴァベルトよりも大人だった。けれど、ずっと子供だったのだろう。たった五歳の妹一人、守れはしないと、泣くしか出来なかった愚かなエヴァラント。



 己の中に抱えた秘密だけで、手いっぱいだったから。


 ごめんな、と何度心の内で唱えただろう。


 ごめんな、と泣き叫んで、許しを乞えたならば、どんなに楽だったか。


 赦されはしない想いに、押しつぶされぬよう、ただ嘘ばかり上手くなってゆく。


 手持無沙汰に足をぶらつかせ始めた妹へ、「なぁ」と小首を傾げた。



「本当に、もう、怒ってない?」



 色んな思いを含め尋ねる。

 ボサボサの黒髪を何となしにいじる兄を、呆れた表情で妹が見やった。



「こないだも言ったけど、もうその話は終わりだって」


「ん…」


「だって、結果として、兄貴もばあやも、今、幸せでしょ」



 幸せ、という言葉に、苦い顔をする。


 今、自分は幸せだろうか。脇に置いた本の青緑の表紙を、隠すように撫ぜた。


 好きな本に囲まれて、生活の心配をせずにいられる今…自分は、幸せだろうか。



「ルーは? 幸せ?」



 疑問を妹へ映すように尋ねると、彼女も曖昧な顔をする。ゆっくりと瞬いた赤茶の猫目は、揺れて宙へ視線を投げた。



「私…私は、まだ…わかんない」


「…そっか」


「でも、存外、不自由だな…とは思うよ」



 住むことも、食べることも、寒さも暑さも、命の不安さえ、今は前より不安が無い。

 生活のために生きていた時は、こういう生活を下から見上げて、明日に不安が無いってどんなに楽だろう、と考えていた。

 いざ、そこに立ってみると、何もかもががんじがらめ。綺麗なドレスは暖かく、繕う必要もないけれど、重たすぎて身動きが取れない。



「前の生活は、何でもすぐに手が届いてた気がする」



 無い物ねだりなのはわかっていた。隣の芝生は青いのだ。

 兄もわかっているが、ルーヴァベルトの言葉を否定することはなかった。ただ、「そうか」とだけ微笑んだ。

 エヴァラントは知っている。ルーヴァベルトは、自分より遙かに強いのだ、と。

 今は迷っていたとしても、彼女は自分で立ち上がることを知っている。



「ラン君の事は嫌いかい」


「別に嫌いじゃないよ。多分、好き。でもこれが愛情かって聞かれたら…困る」


「そうか」


「悪い奴じゃないとは思う。まぁ、最初がアレだったから出会いは最悪だけどさ。胡散臭いのは今も変わりないけど」



 でも、と尻すぼみに呟いた。「…嘘で塗り固められた人じゃない、気が、する」



 それは、彼の人の周りを見ていて思うことだ、と続けた。



「私があの人に対して抱いてる印象は、ほとんどが周りの人から受けるイメージなの。だから、もっとちゃんと本人と話して、知っていったら、自分がどう変わるかわかんない」



 何もない宙を、けれども前を向くルーヴァベルトを、瓶底眼鏡越しに眩しげに見つめた。

 ああ、本当に、と思う。



(君には…俺などいらない程に、強いね)






 しくり、とまた、胸に針が刺す。

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