第38話

 こんこん、と控えめなノック音に、エヴァラントは本から顔を離した。


 時刻は夜半をとうに過ぎている。そろそろ寝なくてはと思いつつ、ついついベッドに腰掛け書を読み進めていたら、こんな時間になってしまった。おかげで目がしょぼしょぼとした。外していた眼鏡をかけ直すと、「はい」と返事をした。

 俄かに軋みながら開かれた扉の向こうから、ひょいと黒髪が揺れて見えた。おずおずと顔をのぞかせたのは…。



「ルー?」



 珍しく下がり眉をした妹に、驚いて声を上げた。むっと口を引き結び、寝室への入り口から動かない。

 その様子に、エヴァラントは手にした本を脇へ置くと、口元に笑みを浮かべた。



「おいで」



 隣をポンと叩いて示す。惑う表情を見せたルーヴァベルトだったが、すぐに部屋に滑り込むと、素直に腰を降ろした。


 一瞬、どきりと胸が跳ねた。


 隣に座る妹の見慣れぬ姿。肌触りの良い布で縫われた夜着は、ゆったりとしたデザインであるものの、素材のせいか妙に彼女を女性らしく見せた。

 ヨハネダルクの家では夜も朝も身を寄せ合って一緒にいた兄妹だったが、この屋敷に越してからというもの、夕食後にそうそう顔を合わせることは無かった。ルーヴァベルトは日々の疲れですぐ寝てしまうようで、エヴァラントも思考から逃げる様に寝ても覚めても文字へ没頭していたためである。


 ふわり、と鼻腔を擽った花の香りに、思わず顔を背けた。それが石鹸の香りだとわかっていても、息苦しさを感じた。


 悟られてはいけない…務めて笑顔を張り付けて、いつも通りの口調で呼んだ。



「ルー」と優しい声に、妹が顔を上げる。緩くまとめられた黒髪は、艶やかに白い輝きを見せていた。



「いくら兄妹でも、こんな時分に男の部屋を訪れるなんて、感心しないな」



 自分で招き入れて置いてどの口が、と内心自嘲する。己の浅はかさを棚上げし、説教めいた口調で妹を責める自身に嫌な気分になった。

 すると、更に口をむっと曲げ、ルーヴァベルトがふて腐れる。



「何だよ。ついこないだまでは、同じ部屋で一緒に寝てただろ」


「今は状況が違う。君は婚約者持ちだ」



 俄かにルーヴァベルトの双眸が見開かれる。赤茶の猫目がエヴァラントを凝視し…揺れた。

 あ、と心の中で嘆息する。しまったな、と瓶底眼鏡に隠れた瞼を伏せた。

 傷つけた。拒絶されたと、きっとそう感じただろう。



(ごめん)



 決して顔には出さず。

 部屋になど入れなければよかった。今更悔やんだとて遅い。



「誰かに見られたらいけない」



 淡々と繰り出した言葉に、唸る様にルーヴァベルトが答えた。



「誰にも見られてない」


「だから」


「じゃ、今度から、窓伝いに来る」



 何がしか言い含めようとして、結局やめた。これ以上は押し問答になるだけだ。

 押し黙ったままそっぽを向いたルーヴァベルトは、けれども立ち上がろうとも、部屋を辞そうともしなかった。むっつりとしかめっ面のまま、俯いて床を睨めつけている。


 そうして暫く兄妹間に沈黙が流れた。


 さて、そろそろ居心地が悪くなってきたぞ、とエヴァラントが眉を顰めた時、不意にルーヴァベルトが口を開いた。



「今日」と、小さな声で呟く。



「人に、沢山、会った」



 相槌は打たなかった。けれど、彼女はぼそぼそと続けた。



「仕立て屋と、化粧道具を扱ってる…あの人、王弟殿下の友達って人。後、庭師の子」



 新しいドレスを仕立ててくれるそうだ、と途切れ途切れに告げる。

 ドレスの布地のことも、化粧品の事も、全くわからなかったらしい。何を聞かれてもピンとこず、けれどジーニアスのおかげで今ほど派手なものにはならないだろう、と息を吐いた。

 庭師には、中庭で会ったらしい。年の頃は、自分と同じくらいだろう、と彼女は言った。



「背格好も私と同じくらいの男の子で…そんで、その子が私の代わりにソムニウムで働いてくれてるんだって」



 職場であった娼館の名を口にする時、僅かに苦いものを含んだ顔をする。思うところがあるのだろう。しかし、それ以上庭師に関して言うことは無かった。

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