第37話-2
そんなことを考えつつ彼女を見つめていると、等々我慢が出来なくなったのか、ルーヴァベルトが口を開いた。
「何なんですか、さっきから」
「何が?」
「こっち見ないでください」
「酷いな、おい」
彼女の不機嫌を軽くいなし、視線を上へ投げた。藤色の向こうの青は、白を含んだ空の色だ。
「二人きりだな」
甘く響く声で独りごちる。返事はない。
予想通りの反応に、傷つきはしなかった。
「なぁ、ルーヴァベルト」と名を呼べば、きちんと反応をしてはくれるからだ。
「現状、俺の事をどう思ってる?」
さわり、と藤の花が鳴いた。
赤茶の視線が、ランティスへ向けられる。怪訝な色を浮かべた双眸がゆっくりと瞬いた。
何か言おうと薄く開いた唇は、すぐに閉じられる。言葉を飲み込み、思案するように瞳を揺らす。
たっぷり間を置いて、息を吐き出した。
「よく、わからない」
ぶっきらぼうな口調。けれど、それにランティスの心がぞわりと沸いた。
ああ、ルーヴァベルトだ、と。彼女は今、「ルーヴァベルト」としての言葉をくれようとしているのだ、と。
彼女は顔をランティスへは向けず、真っ直ぐに前を見据えていた。誰もいない空間へ何を見ているのだろう、と彼女の横顔へ思った。この一か月を、そこに映しているのかもしれない。
「最初は意味もわからず婚約者になれと言われ、やり口もすっきりしないし…それこそ、金で買われた気がして、腹が立って仕方なかった」
自分で自分の言葉に腹を立てているのか、唇をきゅっと噛む。黙ったまま、ランティスは耳を傾けていた。
でも、と彼女は続ける。
「そもそも最初から、あんたは金銭面の話をしてくれていた。家族に対する生活の保障。…私はそれを了承した。自分から、金で買われたんだ」
そうだと気付いたのは、頭が冷えてから。随分時間がたってからだ。
やり口は気に入らない。けれど、最初から彼は筋を通していた。ルーヴァベルトが一番欲しかったものを提示し、ルーヴァベルト自身がそれを受けた。
だというのに、苛立ちを、全てランティスのせいにして。
何様だ、と赤髪の王弟殿下に対して思っていた。
(私の方が、何様か)
兄のエヴァラントは、自分を犠牲にすることなく、今は好きな仕事に没頭している。
年老いたばあやは、清潔な部屋で、死に怯えることなく居眠りをしている。
三食の食事と、温かい部屋。雨漏りや隙間風に凍えることもなく、明日の生活の心配もない日々。
与えてくれたのは。
「正直、あんたのことは苦手だ。何考えてるかわかんないし、いちいち距離が近いのも嫌だ。…けど、感謝してる」
一度睫毛を伏せ、それからランティスを見た。
灰青の双眸は硝子玉のような輝きで、じいとルーヴァベルトを見つめていた。風に揺られた赤い前髪のせいで、その奥の瞳にどんな感情が浮かんでいるのか、わからない。
「あんたのおかげで、うちの家族は幸せだろう」
頭上で藤の花がひらひらと踊る。時折千切れた花弁が、流れる様に舞い落ちて行った。
ふと、男の口元が、三日月に歪んだ。
「うちの家族は、か」と、呟く。絡めた指に、ぐっと力が込められた。
もう一方の手で額を抑え、前髪をかきあげた。露わになった灰青は、妙に冷たい色が宿る。
ぞくり、とルーヴァベルトの背に冷たいものが走る。直感的に感じたのは、怖れだ。
「俺のこと、まだ、嫌いか」
嗤うように歪んだ唇から、問いかけが漏れた。
雰囲気に飲まれそうになるのを抗いながら、絞り出すように答えた。
「前よりは…違う」
「じゃ、好きか」
「…いいや」
くつくつと、男が喉を鳴らした。
それは甘い響きだった。だというのに、肌が泡立つ。逃げ出したいと思うのに、絡め取られた指先から力を奪われるように、身体が動かない。
俯いた赤髪は、下から見上げる形でルーヴァベルトへ視線を向ける。その顔に浮かぶのは、どこか恍惚な表情だった。
「意外と傷つく」
「…っ好きになれって方が無理だろ!」
自分がしたことを思い出せと睨むと、「確かに」と声を上げ笑う。徐に絡めた手を持ち上げると、甲へ唇を落とした。
「好きだ」
唇を離さぬまま、ルーヴァベルト、と甘く呼ぶ。
「お前のことを…愛してる」
ぐっ、とルーヴァベルトが表情を硬くした。下唇を噛み、やがて言葉を絞り出す。
「私は、好きじゃない」
本心だった。
ランティスの言葉が本当かどうか、ルーヴァベルトにはわからない。安易に受け取るには、彼の背後に控える様々な事柄が多すぎる。
好意を無邪気に喜べる程に彼を知らず、素直に信じられる程子供ではない。
ただ、肌に感じる男の体温は、酷く熱くて。
そうか、とも、わかった、とも、ランティスは応えなかった。
代りに「すまんな」と口にする。
「それでもやっぱり、俺はお前を、手放してはやれない」
言葉は風に揺れる藤に紛れ、花弁に溶けて、消えた。
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