第35話

 目下、涼しい横顔に、自分の横っ面を張りたくなった。

 


(あーくそっ!)



 隣に座る婚約者殿の視界に入らぬよう、ソファの背もたれに額を押し付ける。顔が熱を持つのがわかった。今、絶対に誰とも顔を合わせたくない。

 全く、つくづく自分が情けない。先程から立て続けに初心な反応をしてしまうのには、頭が痛かった。それなりに女とは遊んできたという自信が、ここ数刻で脆くも崩れてしまいそうである。


 そもそも、こんな感覚は初めてだ。

 笑み一つで、胸の奥が熱く溶けて、蕩けて、壊れ。


 歯ぎしりをしつつ顔を上げると、離れて控えるジーニアスと目があった。切れ長の双眸をひたと向けられ、思わず固まる。そのまま視線を外され、猛烈に恥ずかしくなった。


 苦い顔でルーヴァベルトの横顔を改めて見やった。既に表情はいつも通りのものになっていたが、仕立て屋が顔を上げる度、口元に薄い笑みを浮かべて見せていた。

 どうやら律儀にも婚約者の役目を果たすつもりらしい。



(だよ、なぁ…)



 少しばかり安堵し、同じ程落胆する。やはりあの笑みは、無垢なものではなく、打算的なそれだったのだろう。

 そう理解しても、瞼の裏に焼き付いた彼女の笑みは、蠱惑的で。


 もっと笑って欲しい。


 できれば、それを自分へ向けて欲しい。


 願うのは、ただ、自分だけに笑って。


 どろりと甘美な欲求が、また、腹の底で膨らんだ。思いを馳せ、自然と口元が緩む。


 大切に、大切に、大事にしたい。


 同時に、切り裂き、粉々にして、己以外見えぬようにできたなら。



(本当に、俺と言う人間は)



 浅ましさと歪みを同時に突き付けられた気がした。



「殿下」とデジニアの太い声に呼ばれ顔を上げる。既に顔には綺麗な作り笑いを浮かべていた。

 作り物だと気づきもせずに、仕立て屋は満面の笑みで、ほくほくといくつかの布地を取り上げた。



「こちらのターコイズ、菫色、グレーと薄ピンク、ブルーグレーの辺りで如何でしょう」


「ああ、いい色だな」



 首肯し、黙ったままぼんやりしているルーヴァベルトに話を振った。



「お前はどうだ? 良いか?」



 虚をつかれ、赤茶の猫目を瞬かせ、少女が振り返る。見上げてきた視線は真っ直ぐにランティスを捉え、思わず口を引き結んだ。胸の奥で心臓が跳ねる。

 彼女は怪訝な表情を浮かべ、小首を傾げた。



「…何がでしょう」


「お前のドレスだ」


「え」



 途端、顔を強張らせる。かと思えば、何とも言い難い様子で、そわそわろ視線を彷徨わせ始めた。


 おや、と片眉を持ち上げたランティスは、灰青の双眸を瞬かせた。


 新しいドレスを作ってやると言われ、手放しに喜ぶ女ではないとわかっていたが、それでも少しは…と期待していた。というのも、この一か月、彼女が着まわしているドレスは、一着を覗いてどれも似合っていないからである。

 それはそうだろう。濃紺のそれ以外、似合わない上ルーヴァベルトの趣味ではないと予想したものばかり。ただ単にランティスが自分の軍服と揃いのドレスを着せたい一心で用意したためである。

 ほぼ嫌がらせに近い話だが、ランティス自身は非常に満足していた。勝手な男である。


 しかし先日、婚約者殿の家庭教師であるジュジュから苦言を呈された。「今後人前に出る機会も増えるだろうに、似合わないものを身に着けさせるな」と。

 まぁ、確かにその通りだと納得し、どうせならルーヴァベルトの好きな色で誂えてやろうと、今日、仕立て屋を呼んだわけである。



「お気に召しませんか?」



 眉尻を下げ、デジニアが問うた。

 この男、この形で、非常に腕の良い針子である。一代で築いた店は王家御用達であり、センスも技術も一流。が、本人の服装はいつ会っても奇天烈だった。ランティスには理解できないが、デジニアにはデジニアの服装に関する美学があるらしい。拘りに難癖つけるつもりなく、会う度に愉快な恰好で楽しませてくれるこの仕立て屋を、ランティスは気に入っていた。



「お嬢様の肌の御色は、濃い色が映えると思うのですが。こちらのターコイズなど、色白に見え、非常にお似合いになるかと」


「はぁ…」



 気のない返事をするルーヴァベルトに、更に説明を続ける。



「同じくこちらの菫色も、少し濃いめでかつ青みが強く、美しい布地です。お嬢様の瞳の色ともよく合います。光沢はありませんが、同色の刺繍を施せば華やかなものになるでしょう。グレーと薄いピンクは、白いレースも加え、柔らかな印象の仕立てに…と考えております」


「そうですか」



 芳しくない反応に、更に仕立て屋の眉が下がって行く。助けを乞う眼差しを向けられ、ランティスはふむ、と口元を抑えた。

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