第28話

「あらあら、まあまぁ」と、ジュジュが頬を手に首を傾げる。



 卓上には、採点済の問題集が並べられていた。黒インクで書かれた回答の、間違ったところににだけ赤インクでチェックが入っている。明らかにチェックが多い。

 机に向き合って座ったルーヴァベルトは、げんなりとした様子で頭を抱えていた。



「本当に、基礎の基礎だけ覚えている…てところね」


「…すみません」



 自分の頭の悪さに、つい謝った。自分で言うのも何だが、ルーヴァベルトは生徒にするには出来が悪い。物覚えもよくない。家庭教師を引き受けたジュジュは、とんだ馬鹿を押し付けられたと既に気づいているはずだ。


 けれどジュジュは、丸みを帯びた顔ににこにこと笑みを浮かべたままだ。


 勉強用にと用意された部屋に移動すると、二人きりになって早々、彼女が持参した問題集をルーヴァベルトの前に広げた。


「時間がかかっても構わないので」と、順番に解かせていく。内容は様々で、一般教養、歴史、数学、詩歌、語学…など。


 自信を持って解けたのは、実の所一つもない。元々勉強嫌いで、中等学校も卒業できるぎりぎりのところを走っていたルーヴァベルトは、卒業と同時に日常生活に必要ないと思われる知識をさっぱり頭から追い出した。それよりも、生きるために身につけるべき知恵が多々あったせいである。



(まさか、こんなことになるなんて思わないだろうがよ…)



 見た覚えがあるが、全く思い出せない設問もあった。詩歌に至っては、一つもわからない。

 頭を抱えたまま唸るルーヴァベルトに、楽しげな声でジュジュが呼んだ。



「安心なさって。ルーヴァベルト様」



 卓上に広がった紙を集め、丁寧にまとめた。それを机の端に置くと、椅子を抱えてえっちらおっちらルーヴァベルトの隣に置く。


「重たい椅子ねぇ」と細工の美しい椅子を撫ぜつつ、そこに腰を降ろした。


 顔を上げた少女は、隣に座る相手へ視線を向けた。肉に圧されて細まった双眸が、実は綺麗な空色であることに気付く。柔らかな眼差しは、初夏の空を思わせた。



「得手不得手は誰にでもありますわ」



 斯く言う私は身体を動かすことが苦手で、と恥ずかしげに肩を竦ませる。その仕草も可愛らしく、若草色のドレスとよく似あっていた。



「ルーヴァベルト様は、身体を動かすのは得意ですか?」


「あ、はい。勉強するより好きです」


「まぁ、素敵! 何かスポーツをされてらっしゃるの?」


「スポーツと言うか…その、武術を」


「益々素敵だわ!」



 歓声を上げたジュジュは、うっとりと頬を赤らめた。



「きっとお強いのでしょうね…憧れます」


「あ、ありがとうございます」



 同じくルーヴァベルトも頬を赤らめる。真っ直ぐな賛辞は、真っ直ぐに胸に届いた。何だか面はゆいけれど、嫌な気分ではない。強張っていた肩の力が抜けるのを感じた。

 瞼を閉じ、ルーヴァベルトが武術を使う様を想像しているのか、ジュジュが嘆息した。



「一体、どういった経緯で、武術を?」



 柔い口調の問いかけ。


 一瞬、言葉に詰まり、目を瞬かせた。赤茶の瞳を宙で泳がせるルーヴァベルトを、ジュジュは口元に笑みを浮かべたまま、返答を待っている。

 少しだけ考えた。どこまで話してよいのだろうか、と。一応、ルーヴァベルトはランの婚約者と言う役割を負っている。公娼街に出入りしていたことを大っぴらに口にするのは憚られた。



「その」と歯切れ悪く、口を開く。



「生活をするため、に、強くなるしかなくて…」


「素敵ですわぇ」



 俯きがちに呟いたルーヴァベルトは、え、と顔を上げた。空色の双眸と、目があった。



「生きるために、戦ってきたのでしょう」



 その視線は、驚く程、真っ直ぐで。


 そこに、詮索も、嘲りも、侮りも、なく。


 ただ真に、言葉通りの眼差しで。



「素敵だわ」



 そう言うと、ジュジュはそっとルーヴァベルトの手を取った。ふんわりと柔らかい肉感の掌は温かい。

 ルーヴァベルト様、と彼女が呼ぶ。



「生きることは、戦いですわ」



 それは、どこに立っていても同じで。



「私は運動が苦手ですわ。だから、ルーヴァベルト様の武術のお相手は、到底できませんの」



 けれど。



「別の戦い方を、お教えすることはできます」



 きゅっと握る手に力がこもる。

 すべすべと柔らかな手だった。お金持ちの手だ、と思った。きっと、洗物一つすることもないのだろう。

 しかし、それが嫌味に感じられないのは、きっと彼女が無邪気ではなく、嫌味が無いからだ。



 彼女は言った。


 知識は貴女を守る盾に。


 知恵は貴女が戦う剣に。


 礼節は貴女の邪魔を振り払う槍に。






「これから貴女が立ち向かう世界で、きっと役に立つことでしょう」

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