第25話
まるで毒が染むようだと、ランは舌打ちをした。
夜の帳が落ちる街道。娼家街を出ると途端に人気が無くなった道を、足早に馬車が進む。今夜は月も星もない。おかげで、黒毛が引く黒い馬車は闇に紛れ、車輪の音だけが夜の中に響いていた。
狭い車内の向かいに、ルーヴァベルトが座っている。
晴れて婚約者として手に入れた娘は、むっつりと押し黙り、カーテンの引かれた窓へと視線を向ける。決して目の前の相手を見るものかと、無言の意志があからさまだ。
その様子に、正直、気が滅入った。
自分が好かれていないことはわかっている。やり方が強引であったことも認めるし、すんなり受けいられらる筈がないと覚悟していた。
それでも、欲を抑えることができなかった。欲しいと、そう思ってしまったから。
どうやったって手に入れるつもりでいたし、そこに彼女の意志を考えることをする気もない。そのうち情に絆されて受け入れてくれれば重畳程度に思っていた自分は、相当クズでる自覚もある。
手に入れたくて、手に入れたくて。
あの日、あの夜、初めて彼女を見つけた瞬間から、抑えきれない渇きで壊れそうだった。
腕の中へ捕まえれば、きっと、この飢えは満たされるのだと、そう思っていたけれど。
事実、昼前にルーヴァベルトが屋敷にきてから、ずっと気分がよかった。彼女の方は不満げだったが、食事をしている時は機嫌がよさそうに感じたし、諦め半分で状況を受け入れているように見えた。
そう、つい先程まで、は。
―――ソムニウムで顔を合わせてからこっち、ルーヴァベルトの様子が変わった。
今夜、彼女が屋敷を抜け出し、店へ向かうであろうことは、想像できた。いくらランが店側に説明すると言っても、納得しないだろうと、事前に調べさせた彼女の性格でわかっていたからだ。
だから、先回りして店へ話をつけに行った。折角手に入れたのに、下手な横槍を入れられては堪らない。さっさと「誠意」を渡し、懸念を排除してしまいたい。
今思えば、少し焦る気持ちもあったのだろう。
果たして、ソムニウム側は、あっさりとランの「誠意」を受け取った。凡庸そうな店主はもとより、噂に名高いマダム・フルールが深く突っ込んでこなかったのには拍子抜けした。
ほっとした矢先…ルーヴァベルトの、あの顔。
最初は、驚きだった。当たり前だ、ランがいるとは思わなかったのだろう。
次に、怒り。これも想定内。勝手に来たのだから、少なからず怒ることは想像できた。しかし、激怒することではないであろうとも思っていた。
だから、その直後に、彼女の顔から表情が抜け落ちたことに驚いた。
すう、と、まるで薄氷が張る様に、ルーヴァベルトが閉じたのを感じた。促されるまま素直にランの隣に腰掛け、何でもない会話を聞き流しながら、彼女は薄い膜を張り続けた。そうして、ランを、明確に拒絶する。
心がざわついた。冷たいものを背筋がなぞった。
店主が並べる世辞など全く耳に入ってこないまま、当たり障りなく相槌を打つ。隣に座る太った女は、酷薄な眼差しを不躾にランへ向けていた。
そうして投げられた、言葉。
―――お前さん、随分でっかい怒りを買ったよ
真っ赤な唇を歪め、女が吐いた毒。扱い辛さに苦しめ、と。
(何だそりゃ)
苛々と向かいの少女を盗み見るが、相変わらず凍てつく雰囲気のまま、一切の感情を殺していた。一片たりともランへ心を渡す気がないらしい。
じくり、と心の裏が痛む。眼鏡の奥で、灰青の双眸を忌々しげに細める。
一番柔らかい場所に、細かい針をじわじわ押し込められたようで。
初めて感じる痛みに、ランは顔を歪めた。ぞわぞわと背中を這う感覚は、怒りにも、焦りにも、憂いにも似ている。
「おい」低く唸る様に、ルーヴァベルトを呼んだ。
「何か言いたいことがあるなら、口に出せ」
ちらり、と暗い眼差しがランへ向けられる。赤茶の双眸に感情は見えなまま、。少しばかり面倒くさそうな色だけが浮かんでいた。
彼女は応えず、またそっぽを向いてしまう。馬車の揺れに合わせ震えるカーテンを、じっと睨みつけていた。
―――あくまで、ランを、拒絶する心づもりなのだ。
(…ああ、そうかよ)
産毛が泡立つ。同時に、自分の腹の奥で、黒い何かがごぷりと音をたてながら、ゆっくりと鎌首を擡げるのを感じた。
とても、残酷な、何かが。
気づけば嗤っていた。酷い笑み、で。
ルーヴァベルトの想いなど、関係ないと思っていた。
自分に興味が無かろうが
自分を好きでなかろうが
自分を嫌おうが
そんなもの、関係ない、と。
―――思っていた、のに。
不意にランが腰を上げた。視界の隅で動く影に、ルーヴァベルトが反応する。反射的にそちらを向いた少女へ圧し掛かる様に男が身を寄せる。あ、と彼女が声をあげる前に、その両手を掴んで押さえつけた。
がたん、と大きく馬車が揺れる。御者が「おっと」と声を漏らすのが聞こえた。
馬車の壁へルーヴァベルトを押し付け、その顔を覗き込んだ。驚きに見開かれた猫目が、すぐにきつい光を湛え、ランを睨めつける。
離せ、とそう言うつもりだったのだろう。化粧っけのない顔の、薄紅の唇が薄く開かれる。
そこへ、無理やり唇を押し付けた。
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