第24話

 部屋を辞する直前、ふと思い出したようにルーヴァベルトがフルールを振り返った。

 先程までむっつりと押し黙っていた少女は、俄かに濁る赤茶の眼差しを、ぼんやりと女へ受けた。



「先生は?」



 覇気のない声に、内心ため息をつく。表に出さぬよう、何でもない調子で肩を竦めた。



「使いに出している。当分戻らないだろう」


「そうですか」



 表情のないままそう答えたルーヴァベルトは、一礼し、今度こそ部屋を出ていく。


 急にしおらしくなった彼女を気遣い、仲の良い下働き達にだけは声をかけたらどうかと、店主が言い出した。一人言えば、あっという間に店中に広まり、ルーヴァベルトはもみくちゃにされるだろう。仕事を放りだして飛んでくる馬鹿もいるかもしれない。とにかく、店内が騒がしくなることは、容易に想像ができた。

 わかっていないのは、のほほんと猫を抱く中老の男だけ。


 言い出したのだからついて行ってやれと言いつけると、彼は大人しく一緒に部屋を出ていった。そういうところは素直で良いと思う。主に対して不遜な態度だと言う輩もいるが、そこは持ちつ持たれつ。店主が担うべき役割をフルールが請け負っている部分もあるのだから、二人の関係はこれでよいのだ。余所から阿呆な口出しをすべきではない。


 二人の背中を追いかけ、上背のある黒髪も部屋を後にしようとした。



「待ちな」



 一言投げると、男は足を止める。肩越しにちらと視線を投げ、徐に扉を閉めた。

 完全に帰るつもりであったのだろう。手に上着を持ったまま、にこりと顔に笑みを作って見せた。



「何でしょう」



 眼鏡で隠れているものの、精悍であろう顔立ちを、不躾に見やった。がっちりとした体躯は、シャツ越しでもよく鍛えられていることがわかる。立ち振る舞いからは、育ちの良さが伺えた。所作の一つ一つが丁寧で、店の妓共に見習わせたいぐらいだ。

 その、自然と浮かべる作り笑い、も。


 ソファの背もたれに寄りかかり、フルールは煙草を飲んだ。口内に広がる独特な香りを楽しみ、窄めた唇から吐き出す。白い煙はゆるりと宙へ消えた。



 黒髪に眼鏡のこの男は、ルークと名乗った。それが本名かどうかは尋ねなかった。諸事情で姓は名乗れない、と出鼻を挫かれたからだ。


 突然訪ねてきた男は、初っ端から「ベルと呼ばれる少女を、妻として迎えるつもりだ」と言い出し、店の主をひっくり返らせた。フルールも内心ぎょっときたが、それを表に出すことはしない。平静を装って、軽く相槌を打ってやった。

 妻として迎えるとはいえ、順序としてはまず婚約だろう。いくら姓を明かさずとも、男が貴族であることは明白。そうなると、ルーヴァベルトは貴族の仲間入りというわけだが…。



(そういえば、あの子は男爵家の娘だわ)



 失念していた。見た目も中身もまるでそこらの子供にしか見えないが、一応現在も男爵の妹に当る。

 そう考えると、貴族と結婚話が持ち上がっても、そこまで驚くことではないか、と腑に落ち…るはずもなかった。

 明らかにおかしい話ではないか。

 ヨハネダルク家は貧乏貴族だ。それも並大抵の貧乏ではない。兄妹も、取りたてて有能な部分があるわけでもない。それどころか、令嬢らしい行儀見習い一つできやしない。優雅なお辞儀の代わりに、人のぶん殴り方を叩きこまれた娘なのだ。

それと婚姻関係を結んだところで、この男に何の得があるというのか。


 やんわりを探りを入れれば、にんまり「一目惚れだ」と返された。

 胡散臭い事この上ない。


 しかし、それ以上口を出すのはやめた。何か問題があればルーヴァベルトが自分で断るであろうし、手助けが必要ならば自身で頭を下げにくるべき話だ。先回りして助けてやる義理もない。フルールは母親ではないのだ。



 そう思っていたのだけれど。



 随分肉が弛んでしまった顎をつんと上向きに、白い煙を吐き出した。葉っぱの匂いがふわりと広がり、霧散する。

 そこに薄く、記憶の中の少女の姿が。



(あんな顔を見ちゃうとねぇ…)



 唇を噛み、猫目をまん丸に、婚約者と名乗る男を睨めつけていた。

 壮絶な殺気に、ぴりりと肌が焼ける。噛みつかんばかりの形相でありながら、結局一歩も動かなかった。


 その後の様は、痛々しくて。

 ああ、この娘の矜持は、手酷く折られたのだ、と。


 おかげで、今、こうして男と対峙する羽目になっている。



(いらん情を持っちまったかね)



 首を傾げると、金糸の髪がさらりと額にかかる。煩わしげに払いのけると、冷えた眼差しを男へ向けた。



「ベルの代わりの人間と心付けは、有難く頂くよ。迷惑料としてね」


「勿論です、マダム」



 口元に笑みを張り付けたまま、男が頷く。



「急な話で申し訳ありません」甘い声で告げられた謝罪は、まるで心に響かなかった。



「出来る限りの誠意は見せるつもりです」


「だから、もうあの娘に関わるな…て?」



 あくまで低姿勢な物言いへ、煙管を揺らし、真っ赤に塗った唇を三日月に歪めた。

 男は、是も否も口にしない。柔く、見え透いた笑みのまま、眼鏡の奥からフルールを眺めていた。先程までと変わらない表情。けれどどこか、空気がひりつく。

 ふんと、肩を竦め、豊満な胸を張った。



「いいさ。こちらから横槍を入れるような真似、しやしないよ」



 でもね、と付け加える。



「ベル…ルーヴァベルト次第では…ねぇ」



 一歩前に踏み出した。豪奢なドレスの裾が、存外軽く翻った。飾りがしゃらしゃらと鳴き声を上げ、それに合わせて男へと距離を詰める。

 女にしては大柄なフルールだが、相手の方が若干上背がある。その顔を見上げる形で覗き込む。眼鏡の奥に、青に似た灰色の瞳があった。

 硝子玉のような双眸。感情を読み取ることは出来なかった。



「一つ、祝いに教えてやろう」



 煙草と香水の入り混じった気配と共に、耳元へ囁く。



「お前さん、随分でっかい怒りを買ったよ」



 俄かに男の瞳が揺れる。一瞬、ほんの僅かだが、初めて男がまじまじとフルールへ視線を向けた。

 口元の笑みが、消える。

 可笑しくなって、喉を鳴らして笑ってやった。一歩距離を取り、艶やかに挑発を投げた。



「あれは、矜持の高い子供だ」それも安っぽい張りぼてじゃない。真っ直ぐに、硬く、背に通った一本筋。



「何が目当てかは知らないが、あの娘を転がしたかったなら、手の打ち方を間違えたよ。せいぜい扱い辛さに苦しみな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る