第25話-2
「…っ…!」
息を飲む相手の口内へ、無理やり舌先をねじ込む。歯をなぞり、絡め、舐った。
「…んんー!」
一拍置いて、ルーヴァベルトが暴れ出す。その拍子に、かぶっていたキャスケットが脱げる。中にねじ込んでいた黒髪が、溢れる様に顔にかかった。
全力で身を捩り、どうにか自由を得ようと腕に力を込めた。
しかし、所詮は成人男性と少女である。いくらルーヴァベルトの腕が立とうと、元々の体躯の差がそれを許さない。加えて、ランは彼女の腕前を侮ってはいなかった。下手をすれば腕の骨を折るのではないかという程に、握る指に力を込めていた。
身動きが取れぬよう、彼女の膝の間に膝を差し入れ、どこにも逃さぬように身体を密着させる。存外細いと、頭のどこかで誰かの声がした気がした。
瞬間、舌先に痛みが走った。
思わず顔を歪め、唇を離す。口内がぴりりと痛み、俄かに鉄の味がした。
噛みつかれたか、と細めた灰青で相手を見下ろすと、赤茶の眼差しが自分を睨めつけていた。そこに、煌々と燃えるのは…怒り、か。
にんまりと三日月を口元に浮かべ、ランが嗤った。
「どけ」一オクターブ低い声を、ルーヴァベルトが吐き出す。
けれど、退かなかった。逆に顔を近づけ、耳元へ唇を寄せる。形をなぞるように下唇を滑らせると、僅かに甘い息が漏れた。
このまま腰を引き寄せ、抱きしめたら、どうなるだろうか。
安易な考えが頭を過る。抱きしめ返されることなど、万に一つも無いと言うのに。
僅かに気が緩むと同時に、腕を掴む指から力が抜けたらしい。相手はそれを見逃さなかった。
力いっぱい腕を振り、一瞬で自由を取り戻した。同時に、密着する欄の懐に潜り込む形で身を屈めると、そのまま頭を上へ突き出す。
嫌な予感に、反射的に身体を逸らした。
寸でのところで、ルーヴァベルトの頭が顎を掠める。容赦ない一撃に血の気が引いた。そのまま尻餅をつくように、元の座席へ腰が落ちた。
目の前には、顔を紅潮させ、怒りの形相で自分を睨み付ける婚約者の姿。
逃げ場のない狭い車内で、目いっぱい距離をとり、肩で息をしている。まるで、毛を逆立てた野良猫―――手を伸ばせば、爪を立てることだろう。
眼鏡を外し、無造作に髪を書き上げたランが、くっくと喉を鳴らした。それにすら、びくりと反応する様に、自嘲が浮かぶ。
「ルーヴァベルト」
低い声。けれど、甘く、吐き捨てる様に呼んだ。
「愛しているぞ」
彼女の緊張は全く緩まない。少しだけ、赤茶の瞳に冷めた色が浮かんだ。
(全く信用がないな)
当たり前か、と思いつつ、残念な気持ちもあった。
想像以上に自分の中で、彼女に対する欲求が大きい。対して、ルーヴァベルトのランに対する感情は真逆なのだろう。
それはそうだ。彼女の中で、ランという男は、まだ出会って一日も経っていない。だというのに、暴挙の数々。考えてみれば、嫌われない方がおかしい。
―――焦がれすぎて、それすら、考え至らなかったとは。
まじまじと舐めるようにルーヴァベルトを見やった。
みすぼらしい衣服に身を包んだ男装の少女。黒髪は艶やかだが、別段美人なわけでもない。痩せた身体は凹凸も乏しく、魅力的とは言い難かった。
それでも、向かい合い、自分を見てくれることで、こんなに心躍る。
それが、嫌悪であったとしても。
まるで、短く鋭い棘だ。胸に刺さり、肉に埋もれ、取り出すこともできない。痛みだけがはっきりと存在を主張し、忘れることも許されず。
ひたり、と灰青の凍えた双眸を、ルーヴァベルトの視線へ重ねた。挑むような眼差しが返され、腹の奥底にたまる黒いものが、喜び沸くのを感じた。
肩の力を抜いた。にっこりと、満面の笑みを浮かべて見せる。
小首を傾げると、囁く。「いい子にしてろ」と手を伸ばし、髪へ触れようとしたが、身を捩って逃げられた。
ちくりと胸は痛むのに、それすら愛しいなど、自分はどこかおかしくなったのだろうか。
「安心しな。関係を強要すりゃしない…お前次第だが、な」
「…どういうことですかね」
「大人しく、俺の懐に収まっとけって話だ」
「役割なら、きちんと熟しますよ」
契約ですから、とはっきり付け加える。
棘棘しい言葉は、そのまま細く長い針に変わり、ランの心を抉った。気づかれぬよう、顔から笑みは消さなかった。ああ、俺の言葉は一つも届かないのか、ともう一人の自分が嘆息する。
(仕方ないか)
けれど。
「それでいい」
もう一度手を伸ばし、ルーヴァベルトの手を握った。今度は逃げられる前に絡め取る。強張った手の甲を、押さえつける様に力を込めた。
「傍に居ろ」
「…っ」
「例えお前が…どう思っていようが、だ」
この心を、どう呼ぶのだろう。
ランの知らない感情。愛してると、そう口にしたけれど、それが正しいのかもわからない。
しかし、ルーヴァベルトを、目の前で身を固く自分を睨めつける少女を、決して手放したくないと思う。
逃げようとするならば、四肢をもいで、鎖に?いでしまおうか。そんなことを夢想する程に、凶暴な熱望が自分の中にあることが、妙におかしかった。
握った手を持ち上げ、その甲へ、そっと唇を落とす。
「…愛してる、ルーヴァベルト」
荒れた指先。同じ年頃の令嬢とはかけ離れた肌触りに、もう一度だけ、小さく呟いた。
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