第21話-2

 ソムニウムが、五年前からずっと、ルーヴァベルトの職場である。

 重厚な緑の絨毯と、華やかさを誇示する大きなシャンデリアで飾られた娼館に足を踏み入れたのは、彼女がまだ八つの時だった。



 既にヨハネダルク家が貧乏で、家計が常に火の車だと理解していたルーヴァベルトは、幼いながらに働かねばならないと感じていた。丁度その頃、ばあやが足を悪くし、身体を壊しがちになっていたせいもある。咳をしながら弱々しく「大丈夫」と笑う老婆の姿に、恐ろしいものを感じていた。薬を飲まねば、早く良くなって貰わなければ、ばあやはこのままいなくなってしまうのではないか、と。


 けれど、薬を買うには金が要る。


 どうにか金が稼げないだろうか、と考えていた時、誰かが教えてくれたのだ。「娼家街へ行ってごらん」と、小さな声で。

 果たしてあれが誰だったのか、今となっては思い出せない。あの言葉は、善意だったのか、悪意だったのか。

 どちらにせよ、今よりは随分素直だった少女は、言葉のままに娼家街へ職探しへ出かけたのだ。



 ソムニウムを選んだのは、単に店構えが立派だったという理由である。大店の方が人手がいるだろう、と浅はかな考えがあった。所詮は子供だ。


 昼前、夜の開店へ向けての忙しい時間帯にのこのこやってきた子供を、律儀にも下働きが店主まで取り次いでくれた。当時から柔い男だった店主は、今と変わらず黒猫を膝にのせ、にこにことルーヴァベルトの話を聞いてくれた。



「店で働きたいのだね」その言葉に頷くと、彼は快く了承した。



「まだ君は若いから、当面は下働きとして仕事を覚えて貰うことになる。店に出るのは二、三年先だね。うちは小児で商売はしていないから」



 そう言い、書類を取り出し、仕事内容と賃金の説明をする。正直、内容の半分程度しかルーヴァベルトには理解できなかったが、二三年頑張れば、賃金が跳ね上がることがわかった。それがどうしてかなど、考えもせず。

 とにかく、これでばあやの薬が買える、と喜んだ。数年すれば、稼ぎが増えて、暮らしも楽になるかもしれない。



「店に出たら、後は自分の頑張り次第で、もっと稼げるよ」のんびりと告げた店主に、素直に頑張ろうと目を輝かせた。


 内容に文句が無ければ雇用契約に署名するように促され、さっさと名前を書きこんだ。


 ヨハネダルク・ルーヴァベルト―――そのサインを見て、初めて店主が大きな声を上げた。



「ヨハネダルク?」



 それまでのんびりと優しげな声だったのが、急にひっくり返って甲高く響く。ペンを持ったまま、驚いて目を瞬かせたルーヴァベルトの顔を覗き込み、男は息を飲んだ。



「確かに…面影が、ある」



 独りごちると、慌てた様子で人を呼んだ。やってきた下働きの少女に、何事か言いつける。

 小走りに出て行った少女は、すぐに豊満な女を一人連れて戻ってきた。



「マダム・フルールをお連れしました」



 一礼すると、そそくさと仕事に戻っていく。その背中に店主が「ありがとう」と言葉を投げた。



 女は、随分化粧が濃かった。白く塗った顔に、真っ赤な唇。目の縁にはぐるりと黒の筆が入れられ、瞼は紅が差してある。金色の巻き毛を高々と結い上げており、そこに緑色の玉飾りがしゃらりと揺れていた。

 歳は四十過ぎ程だろうか。化粧と、これまた派手に胸元の開いた青いドレスのせいで、正確なところが読み取れない。



 女はぎろりとルーヴァベルトを睨めつけると、碧眼を細めた。

 驚きと恐怖で身が縮む。見た目はヒグマのようだが、視線は蛇だ。一睨みで、中身まで見定められる気がした。



「フルール」店主の呼びかけに、女がふいと視線を外す。思わず息を吐いた。



「この子、ヨハネダルクの殿様の娘さんらしいんだよ」



 困った表情で猫の背を撫でる店主に、ヒグマ―――マダム・フルールは、ふんと鼻を鳴らした。



「身売りかい?」


「違う違う、働き口を探しているらしくて」


「同じじゃないか」


「違うよ」


「ここに仕事を探しに来るなら、同じだろう」



 馬鹿だね、と手にした煙管で店主の頭を小突いた。


 それまで店の主が一番偉いのだろうと思っていたルーヴァベルトは、目を丸くしてしまう。まるで彼女の方が男の主人のように見えた。


 煙管の吸い口を赤い唇で咥えると、フルールは少女を値踏みするように見やった。ずいと顔を寄せ、窄めた唇から白い煙を吹きかける。苦い、けれどどこか花の香りがする煙草に、ルーヴァベルトが顔を顰めた。



「ここ数年で、ヨハネダルク家は、随分落ちぶれたそうじゃないか」



 顔を覗き込む青い双眸に、怯えた表情の子供が映り込んで見えた。それが自分だと気づき、ルーヴァベルトは唇を噛む。

 その様子に、女は酷薄な笑みを浮かべる。



「同情を誘って、金をせびりでもすれば、可愛げがあったものを」



 滑る様に身を引くと、店主を振り返った。薔薇柄のハンカチで汗を拭いている男へ「それで」と声をかけた。



「雇うのかい」


「まさか!」



 店には出せないよ、と、またもや声が裏返る。噴き出た汗を忙しなくふき取りながら、いやいやと首を横に振った。



「大恩あるヨハネダルクの娘さんだよ」


「今は職にあぶれた小娘だ」


「フルール!」



 諌めるも彼女はどこ吹く風。煙草の煙を細く長く吐き出しながら、長い爪で顎を撫ぜた。



「けれど、まぁ、店主の言い分にも一理ある」



 太い首を小さく傾げて見せた。ヒグマのような体格だというのに、その仕草が妙に艶めかしい。



「さすがに店に出すことはできないね。道理に反する」


「じゃぁ、どうするんだい」


「…そうだねぇ」



 思案気に宙を見上げると、玉飾りがしゃらりと鳴った。でっぷりと太った臀部を揺らし、煙草を飲む。


 その間、ルーヴァベルトはじっと息を殺して立っていた。


 先程から全く話がわからない。どうやらいなくなった父が関係しているらしいが、それを尋ねるのも憚られた。何も知らない子供だと、目の前の女が自分を侮る気がしたからだ。

 自分自身、無知な子供だとわかっている。

 けれど、今は引けない。ばあやのために、家族の為に、できることがあるならば。

 ぐっと歯を食いしばり、拳を握って、顔を上げた。赤茶の猫目をまん丸に、女へ向けて逸らさない。どうか、黒髪の先っぽが、僅かも震えていませんように。

 フルールが嗤った。赤い紅い口元が、にんまりと孤を描く。



「いいだろう」口から白く煙が漏れた。



「このお嬢ちゃんを、雇って差し上げようじゃないか。なぁ、店主」



 相変わらず困り顔の店主が、柔い調子で頷いた。お前がいいならいいよ、と答える。

 女が言った。



「お嬢ちゃん、今日からあんたはここの下働きで、使いっ走り…そして、用心棒になって貰おう」


「用心棒?」



 驚いて声を上げたのは、店主だった。ルーヴァベルトも驚いたが、それを顔に出さぬように必死で平静を装った。



「用心棒って、なんだい? 危ないことをさせる気じゃないだろうね!」


「煩い男だね。少しは黙ってな」



 面倒臭そうに煙管で店主の頭を小突くと、ついと碧眼をルーヴァベルトに戻した。



「給金が欲しいなら、見合った働きをして貰わなきゃね。そこに対して、特別扱いは無しだ。本来なら、ここで働くってなら『妓』であるべきところを免除してやるんだから、それ相応の仕事についてもらうよ」



 じゃなきゃ、他の娘たちが認めないだろう。そう付け加えた。

 にやにやと嗤う女の赤い唇を、じっと睨めつける。返事をまつ彼女へ返す言葉は、一つだった。



「やります」



 大きな声で、まだ幼い少女の声で、そう答える。



「いいのかい?」 楽しげに女が問う。



「用心棒ってのは辛いよ。殴るし殴られる。蹴られるし、時には刺されるかもしれない。身体中至る所をだよ。顔だろうが頭だろうがね」


「やります」



 怯みそうになる心を、必死で押さえつけ身を乗り出した。見開いた双眸は、乾いて少し潤んでいた。

 もう一口、煙草を飲んだ女は、満足げに頷いた。



「いいだろう。今日からあんたはソムニウムの番犬で…このマダム・フルールの可愛い子猫ちゃんだ」

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