第22話
「忘れるんじゃないよ。あんたが職を得たのは、あんた自身のおかげじゃない。あんたの親のおかげだ。あんたにゃまだ何の価値もないんだ」
フルールは厳しい女だった。
後から知った話だが、彼女は実質的に店を取り仕切る役にあるらしい。元は娼家街でも随一の妓女だったというから、あの迫力も頷ける。店主が頭が上がらないのも、そのためだろう。
彼女はルーヴァベルトに愛称を尋ねた。親しい人間から「ルー」と呼ばれていると堪えると、「ならば、ここじゃベルと名乗りな」指示する。「どんな恨みを、誰から買うかわからないからね」と言われ、なるほどと頷く。
フルールは、店の裏にいた男にルーヴァベルトの面倒を見るよう言いつけた。
ざんばら頭に不精髭の、一見小汚い男だ。前髪が長く顔にかかっているため、年齢が読み取れない。辛うじて、東方系の顔立ちであることがわかる。ルーヴァベルトと似て異なる黒髪に、ルーヴァベルトと同じく着まわしすぎて色あせた服に身を包んでいた。
「こいつがウチの用心棒だ」
男は、名をエーサンと言った。笑うと、右の頬にえくぼができる。
「基本は店の雑用の手伝い。時間を作って、この男に身体の使い方を習いな。じゃないと、早々に殺されちまうよ」
そっけない女の言葉に、ぞっとした。彼女の眼は笑っていないから、きっと本当の話なのだろう。
ぺこりとと頭を下げ、自分の名を名乗った。笑う男のえくぼは、優しかった。
エーサンは腕の立つ男だった。思った通り東方の出である彼は、他の男衆に比べて小柄である。けれど、自分よりも大きな相手を、不思議な程上手に投げ飛ばすのだ。
「俺は身体が小さい。お前は、子供だから、小さい。どうやったって、でかい相手には、力じゃ敵わない」
だから相手の力を利用するのだと、口数少なく教えてくれた。彼の故郷で使われる武術だという。
正直、娼館の意味もわからぬ子供の相手など面倒であろうに、彼はよくルーヴァベルトの面倒をみてくれた。女の、しかも子供相手に、用心棒のイロハから、娼家街のあれこれまで、細々と丁寧に教えてくれる。
滅多に怒ることもなく、柔く優しいエーサンに、ルーヴァベルトもよく懐いた。どこか、兄に似ているせいもあったかもしれない。ふわりと、雪解けのように微笑むのが、エヴァラントを思わせた。
敬意を込めて「先生」と呼ぶと、男は照れたように笑う。その度、えくぼができて、また年齢がわからなくなった。
鍛錬内容は、非常に手厳しかったが。
しょっぱなから投げ飛ばされ、地面へ叩きつけられた。気づいたら仰向けで空を見上げていたのには、驚くよりも茫然とした。そんなルーヴァベルトの顔を、エーサンが心配げに覗き込んで、やっと自分が投げ飛ばされたのだと知った。
しかし、元来負けず嫌いな性質だ。俄然やる気が沸き、これでもかとエーサンへ食らいついた。店にいる時間は仕事の合間をぬって、家では朝晩自主練をかかさない。おかげでその頃のルーヴァベルトはしょっちゅう傷だらけで、エヴァラントを酷く心配させたものだ。
その甲斐あってか、一年過ぎた頃には、酔っ払い風情は軽く捻れる程になっていた。今では破落戸程度に負けはしない。どうしたって男衆に力で勝てないが、身に着けた武術は力で勝負するものではない。身軽さを活かした戦い方は、ルーヴァベルトの性にあっていたらしい。
ついでに言えば、店の妓たちは腕が立ってこまめに働く少女を、よく可愛がった。それは子供や愛玩動物を可愛がるのと同じ感覚だったのだろうが、娼家で妓に気に入られるか否かは中々に死活問題であったので、大して気にはならなかった。重用して貰えるにつれ、賃金も増えていったし、綺麗な姐さんたちには優しくして貰え、文句などないのが正直な話だ。
一つ気に入らないことがあるとすれば―――未だ、エーサンに勝ち星を挙げられない点である。
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勝手口からひょこりと顔をのぞかせた相手に、ヤン老人は眼をぱちくりとさせた。
「ベルじゃねぇか」
厨房の中をぐるりと見回し、こっそりと中に入ってきたルーヴァベルトは、足早に老人の側に駆け寄る。芋の皮を剥く手を止め、どうしたのかと首を傾げた。
「お前さん、今日は休みだったろう」
「ちょっと用事があってさ」
「そりゃ、ご苦労なこった」
ヤン老人の足元で、老犬アーリーが、緩慢な動きで頭を上げた。撫でてくれと鼻先を突き出してきたので、微笑みながら頭を撫ぜる。既に視力を失った濁る瞳が宙を彷徨う。毛の短い尻尾が、床を履くように小さく揺れた。
「マダムと旦那さんはいらっしゃるかな?」
店に続く廊下を見やり、小声で尋ねた。「さぁなぁ」とのんびり老人が返事をする。
「探してみりゃいいじゃねぇか」
「時間ないんだよ」
渋面に、皺の深い顔が喉を鳴らして笑った。ルーヴァベルトがやけに忍んでいる理由に思い当たったからだ。
今の時間、店はかきいれ時。高級娼館であるソムニウムは、娼家街で一般的な娼館と違い、酒場と併設の店ではない。店が開くと、大広間に妓たちが集まる。彼女らは銘銘好きに過ごしており、それを客がカーテン越しに覗き見て、気に入った妓を指名する。指名された妓は、客が支払った金額に応じた時間個室に入り、手練手管商売で花売りに勤しむ、という訳だ。
もちろん、常連付の妓も多数いる。お目当ての妓が花売り中であれば客は待たされるのだが、その時間すら愉しみの一環らしい。
娼館で働いている割に、男女の駆け引きとやらに疎いルーヴァベルトからすれば、意味が分からないのだが。
それはさて置き、客待ち妓待ちで暇を持て余している面子に見つかると、面倒くさいことになる。妓たちに見つかれば、あれこれルーヴァベルトを可愛がろうと部屋に引っ張り込もうとする。客に見つかれば、やれ目当ての妓はどこだ誰の相手をしている何時になれば会えるのかと絡まれる。前者は断りにくいこと山の如し。後者に関しては、性質が悪ければぶん投げられるが、ただの絡み酒なだけならばぶん投げるとルーヴァベルトが大目玉を食う。
どちらにせよ、関わりたくないのが本音だ。
再び芋を剥き始めたヤン老人が、歯抜けになった口元をにんまりとさせた。
「気に入られている内が花だぞ」
「うるせぇ」
唇を尖らせたルーヴァベルトは、一つため息をつくと、キャスケットを目深に被り直す。気配を殺すように身を屈めると、様子を伺いながら厨房を抜け出した。
仄かに残る彼女の匂いを追い、アーリーの濡れた鼻先が僅かに上向いた。
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