第19話

 ゆらり、と燭台の灯りが柔く揺らぐ。朱色の火は、風もないのに生き物のように揺れ、室内に蠢く影を生み出していた。


 その中で、一人、男が紙面へ視線を落とす。赤い頭髪は、光に透け、時折金に煌めいた。

 親指で顎を一撫ですると、ランは手にした資料を、脇に控える執事へと差し出した。



「ま、こんなもんだろ」



 大きく伸びをする。既に軍服は脱ぎ、ゆったりとした部屋着へと着替えていた。柔らかな白いシャツ越しにも、よく鍛えられた体躯がわかる。


 座る椅子と揃いの机には、他の資料がぞんざいに積まれていた。一番上の一枚を抓み上げると、中身に眼を滑らせ、息を吐いた。



「うやむやにされていますね」



 ジーニアスのテノールが、薄闇の中で低く滑った。金眼の中に、どろりと燭台の炎が映り、不穏に輝いて見える。



「仕方ない」くっと喉を鳴らし、ランが笑った。



「腐っても王宮で…しかも皇太子殿下に毒を盛るような奴だぞ。自分へ繋がる道筋は、きっちり消す算段くらいしてるっての」


「仮に尻尾を掴まれても、毒見係辺りに罪を押し付けて、保身を図るくらいの力もお持ちでしょうしね」


「嫌だねぇ。ドロドロじゃん」



 茶化す口調とは裏腹に、灰青の双眸には仄暗い感情が宿る。腸が煮えくり返る、と薄笑った。



 自分の中でふつふつと沸く怒りは、腹の奥で黒く鎌首を擡げている。正直、今すぐ怒りの根源の首を切り落として高笑ってやりたい。血で購え、と奴らの権威も誇りも、後生大事にしている信心さえ、土足で踏みつけ、壊してやれれば。



 そんなこと、できもしないと…そうわかっている冷静な頭さえ、憎らしかった。




「毒が少量であったため、皇太子殿下はご無事でしたが…これが警告であれば、近いうちにまた同じことが起こるでしょうね」


「ああ。今回は、都合よく死ねば儲けもん、くらいだったんだろう。ま、次はさせんが」


「動くならば、早い方がよいでしょうね」



 資料を手に机の前に立ったジーニアスは、卓上に散らばった資料をまとめた。肩にかかった灰髪が、絹糸のようにしゃらりと落ちる。無駄に綺麗な男だな、とランは声に出さず独りごちた。


 椅子に深く座り直すと、「で、」と執事に尋ねた。



「ルーヴァベルトは、お気に召したか?」



 その問いに、柳眉を寄せた。



「私が気に入らない、とそう申し上げたところで、どうにかなさるおつもりもないのでしょう?」


「まあな」



 にんまりと、いつも通りの笑みを浮かべたランは、「可愛いだろう?」と付け加える。



「あの、いかにも俺が気に食わないって態度が、たまらん」


「理解しかねますね」



 表情を変えぬまま返したジーニアスは、広くなった卓上に、手早く酒の用意をした。切込みの細工が見事なミニグラスに、ブランデーを少量注ぐ。赤に似た茶の色合いは、何処か愛しい女を思い出させ、ランの口元が綻んだ。


 ちびりと酒を舐める。口内に、芳醇な香りと強烈な酒気が広がり、一つ瞬きをした。



「素直な方ではいらっしゃいますね」と、徐にジーニアスが続けた。



「初日だから、というわけかもしれませんが、半日レッスンを受けて頂いた感触としては…悪くありません」



 露骨に不満そうではあるものの、言われたことには真面目に取り組んでいる。膨大な駄目出しをされても、文句を言わず素直に聞き入れる姿勢には、好感が持てた。



「これが続くのであれば、予定通り、マナーに関しては夜会までには仕上がるでしょうね」


「問題は座学、か」


「勉学は得意ではない、とお聞きしております。明日より、家庭教師がいらっしゃいますので、実際にルーヴァベルト様を見て頂いた後、細かいスケジュール調整を行おうか、と」



「ああ、その辺りは任せる」



 ひらりと手を振った主へ、是と頭を垂れた。



 と、不意にジーニアスが「ラン」と呼んだ。酒杯をもう一舐めしていた彼は、視線だけ、相手へ向ける。

 煮詰めた蜂蜜の如き金色の双眸。それが、じいとランを見下ろしていた。



「一つ、乳兄弟として、聞きたいことがある」



 崩れた口調に驚く様子もなく、赤毛の男がにいと口端を持ち上げた。



「何だ」


「お前、彼女に対して、どこまで本気だ?」



 柳眉を寄せ、厳しい表情を浮かべる青年は、先程までの無表情が嘘のように顔を歪ませた。

 責めるように言葉を荒げる。



「十も年下の少女だぞ」


「失礼な。九つだ」


「同じようなものだろ。しかもあんな…何も知らない子供、を」



 それに、ランが笑い声をあげた。



「お前は優しいねぇ、ジーニアス」額に落ちる前髪を無造作にかきあげる。硝子玉のような灰青の瞳が、どこか冷めて見えた。



「権力欲もなく、面倒な親戚もいない。諸々の条件を鑑みても、条件のいい娘だろう」


「…だからといって」


「一応、貴族の娘だぞ。兄貴も、男爵位についてる」


「育ちも生活も、ほぼほぼ貴族とは言い難いだろ」


「確かに!」



 ははは、と楽しげな様子に、ジーニアスの眼がぎりぎりと吊り上った。人形のように整った顔が、感情的に赤らむ。



 存外、人情的な男だよなと、ランは双眸を細めた。

 普段、執事らしくあろうと気を張って、表情も固く無関心を装っているが、随分無理をしているのだ。知っているのは、乳兄弟として長く側にいる自分を含め、ごく少数だろう。



 机に頬杖をつき、宥めるように「まぁ、聞けよ」と言った。



「お前の言うこともわかるがな、俺は、ルーヴァベルト以外と婚約も結婚もする気はないぞ」



 燭台の灯りが揺らぐ。朱色が照らす灰髪の男は、苦々しい表情で、ランを睨めつけていた。

 下唇を噛み、唸る様に問うた。



「あの娘に執着する理由は」



 言外に、本気なのか、と尋ねる。

 つんと跳ねた赤毛を揺らし、男は小首を傾げた。ゆったりとした襟首から覗く鎖骨に影が落ち、筋張った首筋を指で撫ぜた。



「惚れてるんだよ」甘い声が、低く、室内に響く。



「ルーヴァベルトにな。…一目ぼれ、だ」



 じじじ、と蝋燭が、悲鳴を上げる様に鳴いた。

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