第20話

奪われるように、心、溺れ―――




 


























 


 女は好きだ。






 柔い肌、露骨な好意、嘘が混じるやり取りは、丁度よい暇つぶしになる。














 女は嫌いだ。






 甲高い声、化粧の匂い、透けて見える虚栄心に、吐き気がする。












 それでも足しげく娼家街に足を運ぶのは、それなりに得るものがあるから。






(なんて、な)






 心の内で独りごちた考えに、ランは大きく欠伸する。二階の窓から見下ろす通りは、夜半だと言うのに随分明るい。行き交う男たちは酔っているのか、楽しげに歌を口ずさむ。客引きをする女は、肌の露出が多い服で、胸を強調しながら身をくねらせていた。






 国で二番目に大きいと言われる娼家街ルファスには、国に登録し認可を受けた売春宿が立ち並ぶ。等間隔に灯りが入れられたランタンは、暖色の赤、青、緑と華やかだ。おかげで月のない夜だと言うのに、この街だけ煌々と活気づいて見える。




 その灯りの中で繰り広げられる男女のあれこれは、一見御伽噺の一節のようで。






 つまらなげに窓枠にもたれる男に、ベッドの上から女が声をかけた。






「本当、情緒ってものがないんだから」






 着崩れた服から豊満な胸元を露わに、女が赤い唇を尖らせた。垂れ気味の双眸に不満そうな色を湛えつつ、乱れた髪を結い直している。




 視線を女に移すと、彼は顔に笑みを浮かべて見せた。






「そうか?」口元は三日月に、にんまりと孤を描いた形を作る。






 その返事に、女は更に眉を顰めたが、すぐに肩を竦めてため息をついた。






「まぁ、いいわ。どうせいつもの事だし」






 事後の余韻も楽しまず、さっさと一人で服を整え距離を取る。毎度のことだとわかっていても、腹が立たないわけじゃないと、一人すねて見せる。相手に寄せる心がある分、仕方がないのだろう。




 そんな彼女の好意に気付かぬふりをして、ランは変わらず笑みを浮かべる。


 黒く染めた髪は、顔を隠すように額へ流す。整った精悍な顔は時折少年のように見え、硝子玉の如く澄んだ双眸は不思議な色合いで瞬くのに、女は苦しげに頬を赤らめた。表情を悟られぬよう顔をそむけると、ベッドから腰を上げた。






「帰るんでしょ?」






 つっけんどんな言葉に、顔に貼りつけた笑みで答えた。彼女は引き留めない。そんなことをすれば、二度とランと肌を重ねることが無いと、悟っているのだろう。


 彼に選ばれた女は五万といて、自分が今選ばれているからといって、次も選ばれる確証はない。気が削がれれば、すぐに他へ行ってしまうだろう。






 徐に立ち上がった男の側に寄ると、そっと腕に触れた。






「ルーク」






 字名を呼ばれ、ランはそっと彼女の額に口付る。女は嬉しそうに微笑んだ。




 サイドテーブルから眼鏡を取り上げ、かける。椅子にひっかけた上着を取ると、女と腕を組み部屋を後にした。






 廊下に出ると、途端に騒がしい物音が耳に届く。吹き抜けになった階下は酒場になっており、客の男たちが好き勝手に騒いでいた。下卑た笑い声をあげながら給仕の女たちに声をかけ、女が答えれば身を寄せ合って二階の個室へ消えてゆく。各部屋からは、春をひさぐ嬌声が漏れ聞こえていた。


 娼家街でも手ごろな値段で女が買えるこの店は、毎夜客入りが良い。祭りのような騒がしさに、ランは眼鏡の奥で双眸を細めた。






 と、不意に店の扉が開かれ、小柄な人物が入店するのが見えた。






 色あせ擦り切れた服と真新しいキャスケット。年若い背格好に、店の下働きの少年かと考える。


 隣では女が一方的に喋り続けているのを適当に聞き流しつつ、颯爽と店の中を突っ切る姿を、何となしに目で追う。




 跳ぶように階段を駆け上がり、ランとは逆の廊下へ向かう。向かって三つ目の扉を乱暴に引き明け、中に飛び込んだ。




 途端、中から大きな物音が、次いで男の怒声と何かが割れる音が響く。




 思わず足を止めた。女も気づいたのか、怪訝な表情でそちらの様子を伺っている。階下でもちらほらと、二階を見上げている者がいる。






 ドスン―――音と共に、全裸の男が部屋から転がり出てきた。勢い余って廊下の手すりにぶつかり、その場に蹲って呻き声を上げている。


 追いかけ駆け出てきたのは、先程の少年。床に転がる男の腹を力いっぱい蹴り上げると、潰れた悲鳴がもれた。それに躊躇もせず、更に背中を踏みつける。祈る様に組んだ両手を高く上へ伸ばすと、大きく振りおろし、男の頭を強打した。


 それが決定打になったのだろう。男はぐったりと動かなくなった。


 意識を失ったことを確認するように、少年が相手の顔を覗き込む。男ともみ合ううちに落としたのか、キャスケットが脱げており、一つに結んだ長い黒髪が、肩にかかって落ちていた。






「何なの…」隣で女が怯えた様子でランの腕にしがみ付く。長い爪が肌に食い込むが、気にはならなかった。






 それよりも、少年から、目が離せない。






 ふう、と少年が息を吐く。身を起こすと髪をかきあげ、帽子を探すそぶりを見せた。


 ぐるりと周りを見回す視線が、ランへと向けられる。






 ドン、と胸が鳴る音が、聞こえた。






 乱れた前髪越しに見えたのは、意志の強そうな赤茶の双眸。印象的な猫目をした―――少女だ。


 彼女も殴られたのか、片頬が赤くなり、鼻血が垂れていた。ランの視線に気づいたのか、むっと眉間に皺を寄せながら、服の袖で乱暴に拭う。赤い筋が頬に広がるが、気にした様子はなかった。


 俄かに階下が騒がしくなる。上の騒ぎに気付いた給仕が呼んできたのか、店主らしき男が慌てた様子で駆け上がってきた。






「一体何の騒ぎだ!」






 白髪交じりの初老の男は、唾をまき散らしながら少女に食ってかかろうとする。が、足元に転がる客に気が付くと、ぎょっと眼を剥き後ずさった。


 きょろきょろと視線を泳がせ狼狽える男に、平坦な声で少女が告げる。






「お騒がせして申し訳ありません。すぐ片付けますんで」




「お、おま、お前、マダム・フルールのとこの…」




「ベルと申します」






 頭を下げると、ちらと開け放たれた部屋の奥を見やる。






「お手数ですが、医師の手配を。こいつの相手をしていた姐さんを看て貰った方がいい。薬を飲まされてると思うので」






 その言葉に、店主が慌てて部屋に入る。すぐに中から人を呼びつけ、言われた通り医者を連れてくるように言いつけた。ランと一緒にいた女も、同僚が気になるのか、彼に一言断ると、渦中の部屋へ向かった。

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