第13話

 よろよろと心もとない足取りで自室に辿りついたルーヴァベルトは、そのまま飛び込む様にソファへ倒れ込んだ。


 薄ピンクの布地がふんわりと抱きしめてくれる。そのの心地よさに、このままここで眠れそうだ、と思った。



 ソファに顔を埋めたまま、足をぶらつかせ、靴を脱いだ。踵の高い靴が、放られる形で床に落ちる。転がった金のハイヒールの中敷きに、赤く血が滲んでいた。



「…ったぁ…」



 透けるように薄い靴下にも同じく血が滲む。慣れぬ靴に靴擦れし、おまけに血豆ができて潰れたのだ。ほんの数時間だが酷使された足は、つま先はボロボロ、太腿はパンパンになっていた。



「お疲れ様です」



 労いの言葉に、俄かに顔を上げる。ローテーブルの上に置かれたティーカップから、甘い湯気がくゆるのが見えた。その傍らで、メイドのミモザが気遣わしげにルーヴァベルトを覗き込んでいる。


 ブルネットの髪が柔らかそうで、本当に綺麗な人だな、なんてぼんやり思ったところで、自分の格好を思い出し、慌てて起き上がった。



「すみません!」



 ドレスのしわを伸ばし、放りだした靴を探す。すると彼女は柔い口調で「構いませんわ」と首を振った。



「厳しいレッスンでお疲れでしょう。どうぞ、楽になさって下さい」



 困った顔で視線を彷徨わせたルーヴァベルトだったが、素直に頷く。ありがとうございます、と頭を下げると、年上のメイドは僅かに微笑んだ。



「甘めの紅茶をお入れしました。よろしければ、どうぞ」



 白磁に水色と金で模様が描かれたティーカップ。中には、優しい色合いのミルクティーがつがれていた。


 促されるままに手を伸ばそうとしたルーヴァベルトは、ふと思い出したように立ち上がった。つられて、ミモザの視線も彼女の動きを追いかける。



 ルーヴァベルトは相手に向き直ると、ドレスの裾をそっと抓み、腰を落として頭を下げた。



「遅くなりましたが、ルーヴァベルト・ヨハネダルクと申します。どうぞよろしくお願い致します」



 あら、とミモザが眼を見開いた。濃い茶の瞳を瞬かせる。


 おずおずと顔を上げたルーヴァベルトが、不安げに眉尻を下げた。「最初に会った時、ちゃんと挨拶してなかったので…」



 なるほど、初対面の際に名乗らなかったことを思い出したらしい。


 使用人相手に律儀なことだ、と胸の内で独りごちたメイドは、ふわりと微笑んだ。



「どうぞ、気になさらずに。私は一介の使用人ですので」



 主の婚約者であるルーヴァベルトにとって、道具の一つにすぎない。事実、他の貴族の多くは、使用人をそのように扱っている。


 対等ではないのだ―――暗にそう告げたミモザに、ルーヴァベルトは首を横に振った。



「いや、私も使用人みたいなものなので」


「何を仰います! ルーヴァベルト様は旦那様の…」


「婚約者として雇われているだけですから」



 ぴしゃりと言い切ると、不意に表情を緩めた。赤茶の瞳が、年相応の少女の顔で笑う。



「そもそも、婚約者とかご令嬢って育ちじゃないんです。こんなドレスも初めてで…おかげで、足がボロボロ」



 スカートを抓んで持ち上げると、血に染まるつま先を見せた。乾いてこびり付いた赤が痛々しい。



「歩き方さえままならなくて、この通りです」



 踵の高い靴なんて履いたことが無い。立っているだけで足がつりそうだというのに、綺麗に歩けと言われた時は、嫌がらせとしか思えなかった。


 けれど、そんな泣き言ジーニアスに言えるはずもなく、自身の矜持も許さない。やると決めたからにはやってやろうと意気込んだものの、既に後悔し始めている自分がいた。



(この人が婚約者をした方が、よっぽど上手くこなすだろう)



 そう思い、ミモザを改めて見やる。


 流石、貴族の御屋敷に務めるメイドだ。彼女の所作は美しく、言葉使いも丁寧。ぴんと背筋を伸ばす姿をお仕着せからドレスに変えるだけで、十分どこぞのご令嬢として通用しそうだ。



(本当、何で私がこんなことを…)



 馬鹿馬鹿しい―――そう心の内で悪態をついた、瞬間。

 






 ―――覚えとけよ

 






 ルーヴァベルト、と耳の奥で囁く声がする。



 突如脳裏に蘇る姿に、一瞬で頭が熱くなるのがわかった。同時に、全身が泡立つ。

 赤い影が、灰青の光を帯びて、嗤う。






 

 ―――俺は、お前に、惚れてるって、な







 

「…っ!」



 反射的に耳を両手で押さえていた。頭の中に響く甘い声が、低く身体中を巡る。思わず、息を止めた。



「ルーヴァベルト様?」怪訝そうに、ミモザが顔を顰めた。



「如何されましたか…お顔が」


「な、何でもないです!」



 慌てて首を横に振る。顔が赤いと、そう指摘されるのが怖くて、作り笑いを浮かべて見せた。上手にできず、ぎこちなく口元が歪んだだけだったが。



「とに、かく」と、息を吸った。それを吐き出すと、改めて彼女を真正面から見つめた。



「私の役割が婚約者だからといって、貴方を蔑ろにする理由にはならない」



 濃い茶の双眸が、俄かに見開かれる。それに、へにゃりと笑みを向けた。



「私は新参者で、何もかも、知らないことが多すぎる。貴方が…その、よければ、仲良くしてくれると、嬉しいです」



 少しばかり照れくさく、僅かばかり勇気がいった。


 上手く言葉にできたか、相手に伝えることができたか不安だったが、一度睫毛を震わせたミモザは、その薄紅の唇に柔い笑みを浮かべ、小さな笑い声を漏らした。



「もちろんですわ」



 喜んで、と付け加える。途端、ルーヴァベルトの表情がぱっと輝いた。



 あけすけな笑顔。つられてミモザも笑顔を返した。



 あの主人にしては、随分可愛らしい娘を連れてきたものだ、と声に出さず独りごちる。無表情な執事とやり合っていた時はまるで野良猫のようだったが、こうして見ると、まだ子供ではないか。



(もっと割り切った女性を連れてくるかと思っていたけれど)



 赤毛の主人と同じく、腹の真っ黒なご令嬢に仕えるのかと、内心身構えていた。


 蓋を開けてみれば、拍子抜け…毒気を抜かれたというのが正直なところ。よくもまぁこんな真っ直ぐな少女を捕まえてきたものだ。



(しかも、屋敷から出すなという執着っぷりとは…)



 黒髪の少女をじいと見つめると、彼女は小首を傾げて見せた。


 特別綺麗な娘ではない。最初見た時は少年のようであったし、きっと同僚たちが心配していたような女特有の手管で主人をたらしこんだわけではないのだろう。

 そもそも、他人に興味のない赤毛の主人が、そんじょそこらの女程度でたらしこまれるとは思えない。



 面白い、と双眸を細める。側で彼女を―――主人との関係を伺うのに、俄然興味がわいた。



「まず、怪我の手当を致しましょう」



 心の内側を綺麗に隠して笑うミモザに、ルーヴァベルトは素直に礼を口にした。

  

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