第12話

 隣の応接間で待つようにと、薄ピンク色のソファに座らされた。



 ミモザはジーニアスを呼びに部屋を出ていく。その前に、お茶の用意をされた。またかよ、と内心げんなりする。

 さすがにそろそろ水分は遠慮したいところだ。紅茶ばかり何杯も飲んでいて、いつ尿意がやってくるかと冷や冷やしていた。この格好で用を足すことを考えると、気が遠くなりそうだ。


 目の前で仄かにくゆる紅茶の香りに、手を出すかどうか悩んでいると、扉が開いた。



「失礼致します」



 一礼し、灰髪の男が入ってくる。黒い執事服の背筋をぴんと伸ばし、ソファに座るルーヴァベルトを見ると、どろりと濃い蜂蜜色の金眼を、すうと細めた。

 値踏みするような視線に、ルーヴァベルトは眉を顰める。



(どうせ似合わんって思ってるんだろうが)



 心の内で悪態をつきつつも、口には出さなかった。表情には出ていたが。

 それがわかったのか、滑るように側まで寄ったジーニアスが、そっと身を屈め囁いた。



「非常にお似合いです。見違えました」



 テノールの声は相変わらず硬かったが、少しばかり柔く響く。


 慣れぬ賛辞に、化粧を施した少女の頬が僅かに赤らむ。しかし、残念なことに、照れたわけではなく、「馬鹿にしやがって」という反抗心から顔が赤くなっただけだった。


 噛みつこうとルーヴァベルトが口を開く前に、スッと相手が姿勢を正した。



「それでは、今後に関して、具体的にご説明させて頂きます」



 そう言うと、手にした紙を差し出す。


 反射的に受け取ったルーヴァベルトは、眉を顰めつつ、無言で中身に眼を通した。

 書かれているのは、何がしかの予定表らしい。日付と概要が端的に書かれていた。

 続いて、下の方には概要に対する詳細な内容。聞き覚えのない名前もある。


 これに似たものを見たことがあるぞ、とルーヴァベルトは眼を細めた。頭の中をひっくり返して記憶を探る。そうして思い出したのは、つい最近卒業したばかりの学校でのことだった。

 年度の始まりや、催し物がある際に、教師から渡されていたものに似ている。


 嫌な予感に、低い声で尋ねた。



「これ、何ですか…」


「ルーヴァベルト様の、今後のスケジュール一覧でございます」


「スケジュールって、なん、の…」


「二か月後、ラン様の婚約者として、夜会に同行して頂きます」


「二か月後!?」



 夜会、という言葉に、勢いよくジーニアスを振り見る。彼は涼しい顔で、眼を一つ瞬かせた。



「ルーヴァベルト様は市政の中等学校はご卒業済、とのことですが、貴族としての教養や常識に関してはご存じないとお見受けしております。ですので、この二か月間、夜会に出ても恥ずかしくないご令嬢になるためのレッスンを熟して頂きます」


「お、お勉強ですか…」


「ええ。座学はもとより、歩き方、会釈、挨拶、笑い方等の仕草全般、ダンスレッスンに加え…マナーも学んで頂かなくては」



 ぐえ、と蛙を潰したような声を上げた相手に、執事の金眼がすうと冷たく細められた。



「…言葉づかいから、矯正せねばいけませんね」



 冷え冷えと凍えたテノールが背筋をなぞり、肌が泡立った。絶望感で眩暈がする。



(勉強…べんきょう…かよ)



 勘弁してくれ、と頭を抱えた。


 髪の毛に両手を突っ込み、側頭部をゴリゴリと揉んだ。折角ミモザが整えてくれたのに、早々に髪が乱れてしまった。

 けれど、そんなこと気にする余裕もない。


 あーやらうーやら唸り声を上げる姿は、何処から見ても「ご令嬢」には程遠いものだった。当たり前である。兄が爵位をついでからこっち、貧乏貧乏で淑女教育など受けてこなかったのだから。


 徐にジーニアスが口を開いた。「ルーヴァベルト様」



「もしかして、という程でもないですが…お勉強は得意ではいらっしゃらないですか?」


「…だいっっっっっっきらい…です」



 元来、じっとしているのが苦手なのだ。身体を動かす方が性に合っているし、頭を使うのは滅法弱い。

 それでいいと思っていた。賢い兄がいるのだ。頭を使うことはエヴァラントに任せ、自分は動いて働こう、と。


 何とか中等学校までは卒業し、やっと大嫌いな勉強から解放されたと思ったのに。



 その様子に、ふむ、とジーニアスが口元を抑える。白い手袋の長い指先で自分の頬をトントンと何度か叩くと、ゆっくりと頷いた。



「承知致しました。でしたら、細かく休憩を入れ、座学を連続で行わぬよう調整しましょう。途中、身体を動かすレッスンが入れば、多少はストレスが軽減されるかと」


「…お願いします」



 頭を抱えたまま答えたルーヴァベルトに、なるほど、とジーニアスは口元を緩めた。



(顔も口も馬鹿正直だが、嫌とは言わないのだな)



 不平不満を隠す気が無いのか、素直に顔に出てしまう少女。時にはそれを言葉にもする。

 それでも、婚約者の話を受けると言った時から、決して拒絶をしない。

 今も、露骨に嫌だと苦しんでいるくせに、返した言葉は「お願いします」だった。



(…ランが、気に入るわけだ)



 脳裏に主の姿が過る。赤髪の男は、にんまり口を三日月に、「そうだろう?」と満足げだ。



 淑女教育もままならぬ貧乏貴族の娘を婚約者にするなどと言い出した時は、馬鹿かこの野郎頭かち割って全身赤くしてやろうか、と思ったものだ。暇を持て余しているわけでもなかろうに、と危うく手にした分厚い資料の角で頭をぶん殴るところだった。


 けれど、一度言い出したら聞かないのは、昔からである。


 絶対にルーヴァベルトがいい―――そう言い張り、結局、自分一人で勝手に動き、兄のエヴァラントを巻き込んで、彼女を絡め取ってしまった。



(そういう意味では、本当に可哀想な話だな)



 ランに眼をつけられたことに関して、不憫でしかない。あれは、面倒な男だから。



 義務感と憐憫、ひと欠片の興味を持って、金の双眸がルーヴァベルトを見やる。



(まぁ…猿を矯正というのも、面白い…か)



 覆い隠した口元を僅かに歪めたが、それを拭うように指先で唇をなぞると、姿勢を正した。



「それでは、ルーヴァベルト様」硬質な響きで彼女を呼ぶ。

 顔を上げた赤茶の瞳と視線が合った。よほど勉強が嫌なのだろう、少しばかり潤んだ双眸に、気持ち程、微笑んで見せた。



「早速、レッスンに移りましょう。今日は初日でございますから、簡単に歩き方と礼の練習だけに致します。…ああ、僭越ながら講師は、この私めが務めさせて頂きますので」



 彼女の顔が引きつったのは、果たしてレッスン内容のせいか、ジーニアスの笑みのせいか。

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