第10話
一度家に帰りたい…という申し出は、あっさり執事殿に却下された。
「屋敷から出すな、と申し付けられております」
「はい?」
テラスのソファに腰掛けたまま、ルーヴァベルトは眉を顰める。黒い執事服の男は、すんとした表情のままだ。
お前に惚れている―――ランの言葉に、不本意ながらルーヴァベルトは動揺した。大いにした。こんなに動揺することは滅多にない、という程にした。
顔を真っ赤に染め上げ、茫然としつつも相手を睨みつける彼女に、赤毛の男は不遜な笑みを浮かべた。
そして、もう一度、今度は頬に唇を寄せる。
声にならない悲鳴を上げた彼女に、ランは大きな声を上げて笑いながら、さっさとテラスを出て行ってしまった。
一人取り残されたルーヴァベルトといえば、頭が爆発するのではないかという程、熱を感じていた。ぐるぐるとした思考はまとまらず、心臓は大きな音を立てていて鼓膜が痛い。
先程の、あの赤毛の軍人は何と言った?
一体、自分に何をしたのか。
思い出して、更に熱が上がる。
それが悔しくて歯を食いしばり、そんな姿を見られた羞恥で膝を抱えてしまった。どうしてあの時殴らなかったのか、と後悔ばかりが腹の中にたまる。
暫くの間そうしていたが、何とか落ち着きを取り戻し、顔をあげた。すると、いつの間にかソファの脇にジーニアスが立っていた、というわけである。
卓上は綺麗に片づけられており、空になった皿やティーカップは下げられたらしい。全然気づかなかったことに、重ねてショックを受けた。
「お部屋へご案内します」
気まずげに愛想笑いを浮かべるルーヴァベルトに、無表情な執事が告げた。「どうぞ、こちらに」
有無を言わせぬ物言いに、一瞬従いかけ…ふと、思い出す。
(ばあやの昼ごはん、まだだ…)
自分は二人前のサンドイッチを腹いっぱい食べてしまって忘れていたが、ばあやの昼食を用意していなかった。それまでには帰るつもりだったからだ。
「あの、一回家に帰りたいんですけど」
ばあやに(呆けて話はわからないかもしれないが)説明をしなければならないし、この屋敷に住むのであれば荷造りもしなければならない。私物が多くないが、大事なものは持ってきたい。
そういえば、この屋敷で生活することになったら、ヨハネダルク家の土地はどうなるのだろうか。
屋敷は燃え落ちており、何とか残っていた枠組みも雨風で朽ちてしまっている。庭の手入れもしていないし、放っておいてもどうなるものではないが、一応生家。ほとんど覚えていないものの、両親と過ごした場所だから、手放すのは嫌だなぁ、なんて考える。
けれども、返された言葉に、そんな考えは吹っ飛んだ。
「屋敷から出すな…て、何それ…」
「主の命です」
言外に、交渉の余地がないことを告げる。
蜂蜜に似た金の双眸は、ルーヴァベルトに向けられていたが、見ていない。むっとして、立ち上がった。
「ここで暮らすなら、持ってきた自分のものもあるんで。それに、老人が一人、家で待ってるし」
手にしたキャスケットを乱暴にかぶると、背髙な男の隣をすり抜ける。そのままテラスから出ようとした背中に、低い声が平坦な調子で言った。
「ご心配なく。ヨハネダルク家のものは、家財全てこちらに移動済です」
「はぁ?」
扉の取っ手に手をかけたところで、思わず振り返る。怪訝な表情をむけると、相変わらず感情の見えない顔で、ジーニアスが続けた。
「ご婦人も、既に屋敷の部屋にてお休みになられています」
瞬間、ルーヴァベルトの顔から表情が削げ落ちた。纏う空気に、ぴりりと緊張が走る。
敵意に似たそれを、執事はさらりと無視した。磨かれ黒光りする靴の踵から、乾いた靴音を鳴らし、彼女の隣に立った。
「参りましょう」
硬質な声が、日差しの柔いテラスに、低く響き、霧散する。
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