第9話-3

 兄とばあや、二人の生活の補償をくれる―――たった一つ、その約束が、彼女の心を動かした。

 



 ―――各自個室、三食おやつ有、衣類雑貨に関しても、費用の心配ない。全てこちらが持とう

 



 甘く響く男の声が、とろりとルーヴァベルトの思考を絡め取った。



 あの瞬間、この大きな屋敷で、本に囲まれ嬉しそうなエヴァラントの顔が浮かんだ。


 隙間風の吹かぬ暖かい部屋、十分な薪をくべられた暖炉にあたり、うつらうつらするばあやの姿。


 継ぎ接ぎのない洋服。洗いすぎて薄くなった生地じゃなく、流行遅れのデザインじゃなく、着ていたって誰も兄を笑わない恰好をさせてやれる。


 雪が降る夜、茹だるような熱帯夜…ちゃんと息をしているだろうか、夢から醒めぬまま、逝ってしまいやしないだろうか、と、数時間おきにばあやの寝顔を確認せずにすむ。


 二人が、何も、我慢せずに、生きられるなら。





「…貴方に、どんな思惑が在ろうとも、別に知りたくもないです」



 改めて、念押しするように繰り返した。



 わざわざこんな形で、自分が選ばれた経緯など、興味ない、と。



 この男がどんな家柄で、軍の役職が何で…と、尋ねる気もない。だから、姓も知らぬままでいい。


 利用したければするがいい。


 貴族然と、使い捨ての駒程度に扱うのも結構。その掌の上で、見事踊ってやろうじゃないか。


 利用されてやる。




(二人が、幸せになれるなら)



 約束をくれるなら、どれ程にも従順な犬になってやろう。



「そちらにどんなメリットがあるかは知りませんが、結婚でもなんでもしてやりますよ。衣食住確約されてて、こちらの家族込みで面倒見て頂けるなら、仕事してるのと一緒ですし…ああ、ある意味、永久就職ってやつですね」



 自嘲気味に鼻で笑うと、相手が妙な顔をした。少しすねた様に唇を尖らせ、むっとした口調で問う。



「仕事ってさぁ…そんなに俺と結婚するの嫌かなぁ。割と、優良物件だと思うんだけど」



 ルーヴァベルトは露骨に嫌な顔をした。



「うわぁ…自信がすごい…」


「だって、金はあるし、地位はあるし、顔もよけりゃ体格だって自信ある。結構モテるんですけど、俺」


「人の好みは様々ですから」


「マジかよ…あ」



 背を持たれ、天井を仰いだランは、ふと思いついたように声をあげた。がばり、と身を起こすと、前のめりにルーヴァベルトを覗き込んだ。



「まさか、好きな相手いるとか?」


「…はぁ?」


「だから、俺になびかないわけか?」



 やはり、一度殴ろう。殴りたい、と少女の表情が凍えていく。


 本気でぐいぐいくる男だな、と思う。胸焼けする程に。



 冷え切ったルーヴァベルトの胸の内など知る由もない赤毛は、項垂れ大きくため息をついた。「マジかよー」と零す。



「そこ、考えてなかったなー」



(考える気、あったのかよ)



 声に出さず独りごちると、視線を外へと向けた。


 柔らかな日差しの中、深い緑を広げた木々が、優しい風に葉を揺らしている。花木に咲く花は、踊る貴婦人のドレスのようで。



 このテラスでばあやを昼寝させてあげれたら、きっといい夢を見せてあげられるだろう。白い革のソファには、肌触りの良い毛布を引いて、冷えないように膝掛をかけて。ついでに隣でエヴァラントが本を読めばいい。愛してやまない古書を、浴びるように。


 赤茶の双眸を細めたルーヴァベルトの口元が、薄く笑みを浮かべた。


 幸せそうに、唇が弧を描く。



 額を抑えた掌越しに、ランがその横顔を見ていることを、彼女は気づかない。灰青の瞳が、真っ直ぐに、ルーヴァベルトだけを見つめていた。




 徐にランが立ち上がる。


 はっとしてルーヴァベルトが彼を見ると、思ったよりも近くに濃紺の軍服があり、驚いた。金の縁取りと、胸の勲章が、きらりと輝いた。


 彼女の隣に腰を降ろしたランは、ずいと顔を寄せてきた。ぎょっとして、思わず身を引いたが、相手がそれを許さない。片腕を掴まれ、引き寄せられる。



「…ッ!」



 目の前、息を感じる距離に、一対の灰青の瞳。


 宵の空に似たその色から、先程までの感情が、綺麗に抜け落ちていた。つるりと丸い、硝子玉のような双眸。整った容姿は、表情が無い今、まるで精巧な人形のようで。


 ぞっとして、身を固くした。



(なんだ、この眼…)



 無機質な視線に、項が泡立つ。背筋を冷たい何かがなぞる感覚に、頭の後ろがかっと熱くなった。


 無意識に、自由な方の片腕を振り上げていた。硬く握った拳を、ランの横っ面目がけて突き出す。


 が、寸でのところで、その腕も掴まれてしまった。



「恐い女」低く甘く響く声が、耳朶を撫ぜる。



「ここで殴り掛かるか? 普通」



 ランが口端を持ち上げ、唇が弧を描いた。歪んだ顔は、まるで笑っているように見える。なのに不思議と無表情のままだった。

 まん丸に見開いた猫目が、硬く揺れながらも、青灰の瞳を睨めつけた。



「放せ」声が震えぬよう、腹に力を込める。



 意に介さず、男が首をこてんと傾げた。



「ルーヴァベルト」名前を、呼んだ。優しく、柔く、甘く、冷たく。



 ぞわっと全身が総毛立つ。何とも形容しがたい感覚に、思わず歯を食いしばった。



「お前が、俺に興味が無いのは構わん」



 結婚を受けたのが、家族の為でいい。



「俺を好きだろうが、嫌いだろうが、気にせん」



 けれど。



 腕を掴む指に力が籠った。手首の筋がちりりと痛む。



「俺は、お前を、絶対に手放さんぞ」



「…な…」



 不意に赤毛が揺れ、ルーヴァベルトへ寄る。その首筋に、唇が触れた。ちゅ、と甘い音が、やけにはっきり耳に届く。



「…ッ!」



 びくりと跳ねた少女の肩に、ランが額を押し当てた。くっくと喉を鳴らし、笑う声がする。



「覚えとけよ、ルーヴァベルト」囁く声は、楽しげにルーヴァベルトの耳を擽った。











「俺が、お前に、惚れてるって、な」 

 

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