第8話
ラン、と名乗った赤毛の軍人が続けた言葉に、ルーヴァベルトは頭の裏がさぁっと冷たくなるのを感じた。
「俺と結婚してほしい」
にこにこと、まるで無邪気といった顔をして、彼はそうのたまったのだ。
何言ってんだ、こいつ…と、どこか冷静な自分が突っ込む。あまりのことに言葉がでなかった。代りに、隣に座った兄が、素っ頓狂な声を上げた。
「けっこん?」鞄を抱きしめる恰好で前かがみになっていたエヴァラントは、弾かれたようにボサボサ頭を上げた。
「結婚!」
「ああ、そうだ」
馬鹿みたいに繰り返す瓶底眼鏡の青年に、赤毛の男はにっこりと笑みを向けた。
「君の妹君と、結婚したい」
告げられた言葉に、エヴァラントの身体がびくりと跳ねた。「あ」とか「か」とかよくわからない声を上げた後、上ずった調子で何とか尋ねる。
「る、ルー…ルーヴァベルトと、ですか」
「そうだ」
「な、なん…で…」
瓶底眼鏡の奥でしきりに眼を瞬かせた兄は、ちらと妹を見やる。日に焼けた顔からごっそり感情が抜け落ちた、虚無の横顔がそこにはあった。
自分と揃いの赤茶の瞳が、完全に死んでいる。
反して、ランは上機嫌だ。
「なに、すぐすぐ結婚しようというわけじゃない。まずは婚約だけして、お互いの仲を深めよう。そういう意味で、ここで一緒に暮らして欲しいと言ったんだ。申し訳ないが、貴族社会で必要な礼儀作法をあまり得意としていないように見受けられる。教師をつけるので、みっちりたたき込んでもらうといい。で、一年後に結婚式を挙げれば丁度良いだろう」
「あ、あの…」
「ああ、心配するな。もちろん、先日言った通り、君もここで暮らして貰って構わないよ、エヴァラント。君だけじゃない。乳母殿の部屋も、ちゃんと用意してある」
そして、と付け加えた。
「その本も、君のものだ」
びくり、とエヴァラントの身体が震えた。反射的に、鞄を抱える腕に力がこもる。
口を噤み、表情を硬くした眼鏡の青年に、ランは小首を傾げて見せた。灰青の双眸から、一瞬、表情が消えたが、すぐにそれを隠すように睫毛を伏せた。
次に瞼を持ち上げた時には、また綺麗な、笑みを浮かべる。
「そういうわけで」一つ、柏手を打った。
「早速、今後の話を…」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
我に返ったエヴァラントが、弾かれたように立ち上がる。拍子に、膝がローテーブルにぶつかり、卓上のティーカップが悲鳴を上げた。
オロオロと二人を交互に見やると、エヴァラントは妹へ言った。
「る、ルー…」
「確認したいことがあります」
それを遮るように口を開いたのは、ルーヴァベルト自身。
赤茶の視線を真っ直ぐにランへ向ける。意志の強そうな猫目は、まるで野良猫に似て。
「何?」とランがにんまり笑った。
「答えられることなら、なんなりと」
「私が、今、どういった場所に出入りをしているか、ご存じですか」
秘め事を告げるように、ルーヴァベルトが声を潜めた。探る視線を、赤毛からそらさない。
彼女自身、顔から表情を消したままだった。己の腹の内は見せないつもりか、とランはほくそ笑む。
「マダム・フルールの店の話か?」
彼もまた、内側を綺麗に隠して、軽く答えた。
「君の職場だろう」
「そうです」
「もちろん、把握してる」
ルーヴァベルトが、素早く目を瞬かせた。二回、睫毛を揺らすと、細く息を吸い込む。
「それに関して、問題はないのですか」
「全く無い…と言えば、嘘になるが」
そう言うと、ランは背もたれへ身を沈めた。柔らかなソファに深く座り直すと、腹の上で指を組んだ。
「それに関しては、こちらも考えがある。安心してくれ」
「そうですか」
あっさりと引き下がると、彼女はもう一つ、と続けた。
「家族…兄と、ばあやも一緒にこのお屋敷に住まわせて頂けるとのことですけど」
「各自個室、三食おやつ有、衣類雑貨に関しても、費用の心配ない。全てこちらが持とう。ついでに兄君の職場への送迎もする」
「ありがとうございます。ですが、もう一つ、どうしても確約して頂きたいことがあります」
「何だ」
「…私の家族の、身の安全…命の、保証を」
もちろんだ、とランはティーカップに手を伸ばす。
「二人の安全を約束する」
半分ほど残った紅茶は、冷めて温くなっていた。丁度良いと一気に飲み干す。
「他には?」空になったティーカップ片手に促すが、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
すん、と澄ました顔に、感情が浮かんでいない。つまらないな、とランは内心ため息をついた。
つい先程までは、感情が溢れていたというのに。
黙ったまま、ルーヴァベルトはローテーブルのティーカップを手に取った。隣に座るエヴァラントは、おろおろとした様子で、妹を見ている。彼女は気づかないふりをして、綺麗に兄を無視した。
その様子を少しばかり眺めていたが、不意にランが「よし」と声を上げた。
「じゃぁ、話がまとまった所で、昼食にするか」
颯爽と立ち上がる。軍服の胸元に光る飾りが、しゃらりと鳴いた。
濃紺の布地を飾るそれは軍での階級を示すものだろうが、詳しい事はルーヴァベルトにはわからない。しかし、きっと低くはないのだろうと思う。相手の立ち振る舞いが、そう思わせたのだ。
「もう少し話をしたいから、畏まった席じゃない方がいい…ジーニアス」
後ろに控えた執事を振り返ると、灰髪の男―――ジーニアスが一礼し、答えた。
「軽くつまめるように、サンドイッチなど如何でしょう」
「ああ、そうしてくれ。天気もいいし、テラスで食うか」
「畏まりました」
主の言葉に、もう一度頭を下げる。
ランは、座ったままの兄妹に視線を戻すと、「嫌いなものは」と尋ねた。揃って首を横に振った。
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