第7話
「まず最初に言っておくが、俺はお前の兄君をどうこうするつもりはない」
あからさまに向けられる不信な視線に、赤毛の男はぴしゃりと言い切った。新しく給された紅茶を口にするルーヴァベルトは、露骨に敵意を醸している。ぴりぴりと肌を刺すような空気に、男はへらりと表情を崩した。
いい反応だ、と内心ほくそ笑む。
部屋に入るまで、果たして、どんな反応をするのか、とわくわくしていた。
ヨハネダルク家の財政は把握している。大よそ貴族と言える生活をしていなかったはずだ。
清貧ではない―――貧乏、と報告を受けていた。
だからこそ、屋敷で一番豪奢な応接間で待たせるように指示した。
金の匂いのするここで、一体どんな顔をしているだろうか。
好奇心に踊らされているのか。
それとも、用心深く様子を伺っているか。
委縮していたら面白くない、と思う。
そんなことを考えながら、来客を知らせた灰髪の執事―――ジーニアスと共に応接間へ向かった。扉の前に立つと、するりとジーニアスが前へ出て、扉に手をかける。
慣れた手つきで…細く扉が開いた。
瞬間。
「だから貞操は無理やり奪われるんじゃなくて、好きな人に捧げて」
少しハスキーな少女の声が、隙間から洩れた。
「いや、俺、恋愛対象女の子だよ!」
慌てた様子の男の声。聞き覚えのあるそれは、つい三日前、件の古書店で会った青年のものだとすぐわかる。
思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を利き手で覆った。掌の下で、口元がむずむずとにやけた。一体、何の話をしているんだ。
背を向けたままの執事が、纏う空気を緊張させた。あ、苛ついてるな…と、長い付き合いで気づく。それも可笑しくて、笑い声が漏れないようにもう一方の手も口に当てた。
「そうと決まれば、さっさと帰るよ。ほら、立って」
その言葉を合図に、執事が扉を押した。
開かれた扉の向こう、黒い執事服を挟んだ先に、こげ茶色のキャスケットが見えた。それを被る人物の目元は、つばで影が出来ており見えない。が、僅かに開いた口元に、虚をつかれたのだとわかる。
「何かございましたか」と、硬質な声が響く。ジーニアスが相手に投げた言葉は、少なからず責める色を帯びていた。
一瞬、相手が怯む気配がした。
が、すぐに「申し訳ないけど」と言い返す。「御暇させて頂きます」
気の強さが滲む、はっきりした声。赤毛の男は、首の後ろがぞわりと泡立つのを感じた。口端に、更に笑みが浮かぶ。
「承諾しかねますが」
冷たいテノールが切って捨てるのを皮切りに、言い合いが始まった。
「いや、そんなこと言われても、帰るんで!」
「どうぞ、席にお戻りください」
「帰るってば!」
「紅茶を入れ直しましょう」
「ちょっと、話を…」
「…っぶは!」
堪えきれず、また吹き出してしまった。同時に、彼女の視線が、初めて、こちらへ向けられる。
蜂蜜色の双眸を僅かに細めたジーニアスが、横に除けると扉を大きく開いた。
視界を遮るものが無くなり、応接間の白い壁と紅い絨毯―――そこに立つ、男装の少女と目が合った。
赤茶の双眸に、自分の姿が映る。その事実に、心が沸くのを、彼女は知らない。いや、この場で誰一人知るよしもない。
この胸に秘めた、どろりと重ぬ、濃い感情を。
「主にございます」
頭を垂れたジーニアスが告げた。
正面に立つ少女へ、大股に歩み寄る。彼女の視線が、赤髪、顔…身に纏う濃紺の詰襟で止まった。金の縁取りをされた衣服が、軍の隊服であると気付いたのだろう。再度見上げた視線には、不信感と―――ほんの僅かな敵意が、見える。
(…ッ)
その表情に、思わずにんまり口元を緩めてしまった。彼女にとっては不気味な笑みだったのだろう。更に表情が訝しむように顰められる。
「元気があって、大変よろしい」
顎をつるりと撫ぜ、そう言った。
心底、そう思ったからだ。
(いやはや、女からあんなふうに値踏みを受けたのは初めてだな)
直後、彼女―――ルーヴァベルト・ヨハネダルクから受けた不躾な視線を思い出す。
上から下まできっちりと、彼女は男を値踏みした。値踏みされること自体は初めてではないが、あんな視線は初めてだ、と、つい楽しんでしまった。
まるで、野良猫が、敵味方を見定めるような、尖った視線。
赤茶の双眸が真っ直ぐに、媚びることなく、自分を見る。
今、向かい合ってソファに腰を下していても、それは変わらず。
楽しくて、思わず顔が笑ってしまった。自分では爽やかな笑顔のつもりだが、相手に与えている印象は真反対らしい。ティーカップをソーサーに戻しながら、更に眉間に皺を寄せてしまった。
「さて」と、一つ、手を打った。
「自己紹介がまだだったな。俺の名前は、ランだ。よろしく、ルーヴァベルト」
名を呼ばれても、彼女は返事をしなかった。
ソファに浅く座り、ぴんと背筋を伸ばした姿は、服装のせいか本当に少年のようにも見えた。さらりと長い黒髪は後で一つに引っくくり、化粧気もなく、色気もない恰好をしているが、その顔立ちは綺麗に整っている。相応に着飾れば、社交界でも目を引く令嬢になるだろう。中身に大分矯正が必要になるが。
ランは、ローテーブルに置かれたティーカップに手を伸ばした。中にはミルクたっぷりの紅茶。
それを一口分嚥下すると、「さて」と呟いた。
「何から話をするか」
「うちの兄に、どんな御用があるんですか」
冷やかな口調で、ルーヴァベルトが言い放つ。むっと引き結ばれた唇に、ランは一つ眼を瞬かせた。
「御用? 別に無いなぁ」
「…じゃぁ、一緒に住もうってのは何です」
「言葉のままだけど」
「兄のどこをお気に召したんですか?」
「どこもお気に召してないけど」
少女の片眉が跳ね上がる。そこに浮かぶ敵意の色が濃くなった。
素直だなぁ、と心の内でほくそ笑む。きっと頭の中で、必死にこちらの思惑がどこにあるかを探しているのだろう。
さて、次はどう出てくるか。
ルーヴァベルトは、一度、目を伏せた。長い睫を揺らし、一つ瞬きをする。それから細く息を吐くと、改めてランを見やる。
「申し訳ないんですが」と、ハスキーな声が言った。
「全然意味が分かりません」
「直球!」
はっは、と赤毛を揺らし、ランが笑った。後ろに控えたジーニアスが、コホンと咳払いで諌めるが、彼は一向に気にしない。
「そりゃそうだ、意味わかんないよな」
むっとした表情のルーヴァベルトと、隣で鞄を抱きしめたままのエヴァラントを順繰りに見ると、徐に身を乗り出した。前かがみに両手を組む。
「用があるのは兄君じゃない。お前だ」
そういうと、真っ直ぐにルーヴァベルトを見つめる灰青の双眸を、すうと細めた。
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