第4話
チリチリと来客を告げる鈴が鳴る。
一つしかない店の出入り口を見やると、帽子を目深に被った男が立っていた。黒いマントで身なりをすっぽりと覆い隠しているが、よく磨かれたブーツがつるりと黒光りするところを見ると、よいとこの御方だろう。
男は先客であるエヴァラントを気にする様子もなく、大股に最奥へと向かう。
店主の前まで来ると、じいと自分を値踏みする不躾な店主の視線も意に介さず、マントの隙間から分厚い包みを取り出した。
「買取をして貰いたい」
低い声は狭い店内によく響いた。どこか甘くもある声は、耳元で囁かれたらさぞ擽ったいものだろう。
そんなことを思いつつ、エヴァラントはそろそろと男の肩越しに包みを覗き込む。こげ茶の布に麻紐で包まれたそれは、男が片手で持つには随分重そうな分厚いものだ。買取を、ということは、きっと中身は本だろう。古書に違いない。
一体どんな本だろうか。新しく持ち込まれた本に対する好奇心が抑えきれず、無作法とはわかっていても、男の手の中の包みを凝視してしまう。
それをけん制するようにキム女史はじろりとエヴァラントを人睨みしてから、手を差し出した。
「見分させて貰おうか」
「頼む」
分厚い包みを受け取った老婆は、思ったより重たかったのか、すぐに両手で持ち直した。
机の上に置くと、麻ひもを解き、包みを開く。広げた布の中には思った通り、油紙に包まれた古書。辞書のように分厚い一冊だ。
カシャカシャと乾いた音をさせ、油紙を外した。露わになった本の表紙は、褪せた青緑。質感から革だとわかる。
刻印されているのは…背中合わせの鷲と狼。
「…っ『失せし王』!」
裏返った声を上げ、エヴァラントが跳び上がる。同時に、さっと避けた男の後ろから、本を掴もうと両手を伸ばした。寸ででキム女史が本を取り上げたため、それは叶わず、べちゃりと机にしがみついただけで終わる。
代りに、老婆が眦を釣り上げ怒鳴った。
「何すんだ! この馬鹿が!」
「そ、その本! その本!」
「はぁっ?」
打ち上げられた魚のようにあわあわと唇を震わせるエヴァラントは、瓶底眼鏡をくるりと黒マントの男へ向ける。
「売ってください!」
これまた裏返った声で、けれどもはっきりと、そう告げた。
「この本を! どうか、俺に!」
机にへばりついたまま見上げた男は、薄暗い店内と目深に被った帽子のせいで、表情がよく見えない。影になった顔の中、かろうじてわかる薄い色の双眸は、面白そうにすうと細まった。
「あんたが買うのか」良く響く声は、低く、甘い。
「俺は構わんぞ」
そう言うと、マントから手を伸ばし、店主の手から革表紙を取り上げた。青緑の古書を追って、エヴァラントの顔が揺れる。
手にした本で軽く自分の肩を叩きつつ、男の口元がにんまりと笑みを作った。
「あんた、金はあるのか?」
「それは…」
「ないよ」
ぴしゃりと言い放ったのは、キム女史。「そいつは貧乏、金なんか持っちゃいないよ」
ぎろり男を睨めつけると、ふんと鼻を鳴らす。
「だから、吹っかけたって無駄さ」
「なるほど」
小さく頷いた男に、慌ててエヴァラントが縋りついた。
「お、お金! お金、今は無いんですが、必ず用意します! だから、それを俺に売って下さい!」
「この馬鹿! やめな!」
「何でもしますから! お願いします!」
必死に懇願する横顔に、キム女史は苦い顔で唇を引き結んだ。相手は得体のしれない初見の客。良心的かどうかもわからないというのに、そんな姿を見せたら、どんな金額を提示してくるかわからない。折角先手を打って牽制してやったというのに、これじゃ水の泡だ。
(この、お坊ちゃんめ!)
とにかく、みっともなく縋りつくのをやめさせようと、机の下から叩きを引っ掴むと、ボサボサ頭目がけて振り下ろそうとした。
その時、男が楽しげに告げた。
「金はいらん」
手にした本を、ボサボサの黒髪の上に、ぽんと乗せる。「この本は、あんたのものだ」
一瞬、きょとんと動きを止めたエヴァラント。それはキム女史も同じだった。振り上げられた叩きが、行き場もなく宙で揺れている。
茫然とした表情のまま、エヴァラントは頭の上の本をそっと手にした。ひやりと冷たい革の温度と、存外つるりとしている質感を確かめ、眼鏡の奥で双眸を瞬かせる。
「でも…」呟いた。
「こんな貴重なものを、タダでなんて…」
「タダじゃない」
言葉を遮った男を、再度エヴァラントが見上げる。机の向こうで、キム女史も次の言葉を待った。
「あんたに頼みがある」
「頼み?」
「そうだ」
首肯した男と目があった。その時初めて、男の瞳が淡い青だと知る。瞬くと、灰も混じって見えた。
「頼みって…」
「ヤバイことじゃないだろうね」
唸るようにキム女史がすごむと、「まさか」と肩を竦める。
「法を犯すことじゃない」
「身体を切り売りするような話でも」
「ない」
くっくと喉を鳴らし、男が嗤った。「なに、簡単なお願いさ」
ヨハネダルク、と呆けた顔の青年を呼ぶ。
「あんたに、俺の家で一緒に暮らして欲しい」
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