第3話
「そういえば」と、キム女史が声をかけた。
本の虫よろしく文字に没頭していたエヴァラントは、一拍置いて顔を上げる。好みの文字に行き当たったのか、口元がにんまりと緩んでいた。それに、老婆が顔をしかめる。
「え、何です?」
丁寧に本を閉じた青年は、丁寧に古書を本棚へ戻した。やはり買う金はないのか、と心の内で呟いた老婆は、皺だらけの顔に埋もれた双眸をしぱしぱと瞬かせた。
「あんたんとこの妹、元気なのかい」
見た目に反して若い声がそう尋ねた瞬間、エヴァラントの顔がぱっと輝いた。次いで嬉しげに頬を紅潮させた。
「ええ! 世界一可愛いです!」
「聞いてないよ、そんなこたぁ」
気味悪げに眉を顰める。いつも通りの反応ではあるのだけれど、ボサボサ頭の三十路男が妹の話をするたびに頬を染めるのは、正直どうだろうかと心底思う。
(まぁ、仕方ないのだろうけどさ)
机に頬杖をつき、キム女史は下唇を突き出した。
ヨハネダルク家は、貧乏貴族だ。元々の爵位も男爵と低く、決して裕福な家柄ではなかったのだが、それでも衣食住に困るような―――今のように、継ぎ接ぎだらけの色あせた貴族服で生活するような状態ではなかった。
ヨハネダルク家の状況が一変したのは、今から十年前―――当時二十歳であったエヴァラントと五歳になったばかりの妹ルーヴァヴェルトを残し、ヨハネダルク男爵とその妻が突如行方知らずとなったからである。
同時期、不審火によって屋敷は全焼。取り残された二人の子供は、続けざまに両親と、帰る家、財産さえも失ったのだ。
幸いなことに勉強に関しては出来の良かった兄は、十六の年に今の職場である研究機関に就職しており、一定の収入はあった。更に、通常一代限りの爵位である男爵の位を、温情から特例としてエヴァラントが引き継ぐことを許され、僅かながらも国から爵位給が支給されることになった。
しかし、残念なことに、そもそもエヴァラントは貴族に向いていなかった。
一旦父親が担っていた仕事を引き継いだものの、全く持ってうまくいかず、一年もたたぬ内に全て他の人間に渡るとことなる。
研究職の給与だけでは屋敷の修復も、人手を雇うこともできない。
それまで屋敷で働いていた使用人もいなくなり、燃え残った屋敷の残骸の側に建てた小さな平屋で、兄妹の二人、そして二人の乳母であるばあやで暮らすことになったのだ。
この十年、幼い妹の兄として、親代わりとして、エヴァラントは彼女を守ってきた。
たった一人の妹…それこそ、いつか眼の中に入れるんじゃないかと思う程溺愛しているのは、致し方が無い、とキム女史は思う。
(もう十年か…)
揚々と最愛の妹の世界一の可愛さを語る青年の話を、完全にうわの空で聞き流す老婆の脳裏に、ふと浮かぶのは懐かしい映像。
まだ、エヴァラントが二十歳だった…そして、何もかも失くした、あの年の夕暮れ。
―――ばあやが、一緒に暮らしてくれるって
今よりも、少しばかり幼さの残る顔を歪ませて、彼は唇を噛んだ。
―――ルーがまだ小さくて心配だから、って
夕と夜の間の時間、辺りは空気は日が落ちて黒く染まり始めたけれど、まだ灯りを入れていない室内は薄暗かった。
その中で、青年は、闇で出来た影のように、突っ立っていた。
今と変わらずボサボサ頭に瓶底眼鏡。少し前、両親がいた頃は、屋敷が焼け落ちる前は、綺麗に櫛が通されていた髪をしていたけれど。
怪我をしているのか、袖から伸びる手首や、頬のあちこちに手後の痕がある。この時ばかりは店の最奥から飛び出したキム女史が、大丈夫かと声をかけた。
それには応えず、青年は堪える顔で唇を引き結ぶ。
どこか痛むのか。
なにか痛むのか。
―――悼んで、痛む、の、か。
幼い頃から店に出入りする男爵家の息子。彼のそんな顔は見たことが無く、老婆の腸が酷く煮えくり返ったのを覚えている。どうしてこんな目に合わなきゃいけないのだ、と。未だに腸は煮えくり返ったままだ。
「悔しい」彼は呟いた。
―――俺一人じゃ、ルーを守れない
年老いた乳母は、自分は身寄りもなく、幼いお嬢様を置いてはいけないから、と無給でルーヴァベルトの世話を申し出たと言う。
有難い申出じゃないか、とキム女史が言うと、エヴァラントは苦しそうにゆっくりと首肯した。
ああ、矜持の問題か、とすぐに思い当たった。莫迦が、と口にはしなかった。
「しっかりしろ!」ひょりと上背のある腹を、目いっぱい叩く。
「守れないとか言ってんじゃないよ! あんたが守らなきゃ、誰があの娘を守るんだ!」
可哀想に、と思った。口が裂けても言うものか、と皺だらけの顔をきゅっと固くする。
泣きたいだろうに、と思った。一粒でも零したなら、横っ面をはってやる。
大丈夫だよ、なんて声にはしない。だってそんなはず、ないのだから。
「歯ぁくいしばれ」
だらりと垂れた両腕を引っ掴み、小さな身体で青年をぐいと見上げる。「あんたの腕にゃ、何もなくなったわけじゃないだろうが!」
瓶底眼鏡の奥は、暗すぎて覗けなかった。先程よりも濃くなった室内の闇に、黒髪は溶けて消えそうに見えた。
「あんたは五体満足で、目が見えて、耳が聞こえて、口がきける。職もあって、正気も保ててて…そんで、妹が、いるだろうがよ」
あの時、彼はどんな顔をしていただろうか。
今、目の前にいる彼は、頬を上気させ、楽しそうにお喋りを続けている。
「…でですね、こないだ中等学校は卒業したんですよ。勉強は苦手みたいですけど、身体動かす方が得意みたいですし、いっかなーと」
「いつもは苛々するような間延びした喋りするくせに、妹の事になると、よくもまぁ舌が回るな」
「え、そうです?」
意外そうに首を傾げたエヴァラントに、キム女史は口端で小さく笑って見せた。
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