第5話

話を聞いた時、驚きを感じるよりも、怒りを覚えるよりも、気が遠くなる方が先だった。


 しかも、兄が素直に白状したのは、つい先程のこと。見覚えのない豪邸の、玄関先での話。



 ここ数日、落ち着きが無く挙動不審だったエヴァラントが、突然「一緒に来て欲しい場所がある」と言い出したのは、質素な朝食を終えた時だ。


 ルーヴァベルトにとって、久々の休暇日だった。というのも、二か月前に中等学校を卒業した翌日から、それまで休日だけだった仕事の日数を増やしたからだ。長らくエヴァラント一人の収入で養ってきて貰ったが、やっと一緒に家計を支えられると、ルーヴァベルトは張り切っていた。出来る限り仕事に出たいと雇い主に掛け合うと、快く重用してくれたのはありがたい話である。

 おかげで、この二か月、休みはたったの三日だったけれど。


 とんでもない激務だったが、体力には自信があるので、一晩寝れば何ともない。幼少時から続けている朝晩の日課のおかげもあるだろう。


 折角の休暇だ。溜まっていた洗濯と掃除…暖かくなってきたので、厚手の掛布団も洗ってしまうかと意気込み、とりあえず窓辺でうつらうつら舟をこぎだしたばあやを椅子ごと庭に出そうと腕まくりをした。



 そこへ、兄から件の誘いを受けたのである。



 何度言っても櫛を通さないぼさぼさ頭を、そわそわと揺らしながら、ぎこちない愛想笑いを浮かべる様子は、正に怪しかった。実の兄だから許容できるが、街で見かけた赤の他人だったら、出来る限り近づきたくないと思うだろう。


 何にせよ、隠し事を白状する気になったのか、と素直に従った。


 兄一人妹一人故に、ヨハネダルクの兄妹は仲が良い。お互い隠し事などしたことがない…と思っていたので、正直、気になってモヤモヤしていたのだ。


 抱えたばあやを元の場所に降ろすと、出かけてくるねと耳元で囁く。わかったのかどうかは不明だが、皺だらけの丸い顔が、ふにゃふにゃと笑った。



 物心ついた時から随分なおばあさんだったばあやは、数年前から耳が遠くなり、呆けも始まって、あまり動かなくなった。今はもう、日がな一日窓辺でふにゃふにゃしているだけだが、兄妹は全く気にせず、それまで通りに暮らしている。生きて、そこに、居てくれるだけで、望むことなどなくて。


 空は綺麗に晴れ渡っていた。手入れのされていない庭から、緑の間をそよぐ風が窓をすり抜け頬を撫ぜた。柔らかい匂いに、少しだけ窓を開けたままにしておく。代わりに、ばあやの膝掛をかけ直してやった。



 二人で家を出る。兄は色あせたコートを、妹はこげ茶のキャスケットを目深に被った。後ろで一つに引っくくった黒髪を、掴んで帽子の中に突っ込む。


 継ぎ接ぎだらけの貧乏服な二人だが、このキャスケットだけ真新しくて、ちぐはぐに見えた。卒業祝いにと職場のお姉さん方がプレゼントしてくれた品で、どこぞの職人の手の物らしく、左側にブランド名が刻印された銀のプレートがついている。お洒落すぎて気が引けたが、被って見せると、お姉さん方が嬉しそうに笑ったのを見てからは、外出時はいつも被るようにしている。



 好き勝手に草が伸びた庭を抜け、形ばかり残っている門の扉から外に出た。そこから大通りへ向かう。途中、食料品店が集まる通りの前の朝市にかちあう。朝早くから行われる市は、時間的に既に商品がまばらになっていたが、並べられた品はどれも瑞々しく美味しそうに見えた。横切りながら、今晩は何にしようとぼんやり考えた。

 市を抜け、王都の大通りを更に進む。大通りを抜けた先は、貴族の屋敷が立ち並ぶ区域だ。

 一応、ヨハネダルク家も爵位持ち。当然今住んでいる屋敷跡地も貴族の屋敷が立ち並ぶ区域であるのだが、全くの反対側に位置する。ヨハネダルク家があるのは下級貴族の住む区域で、今足を踏み入れたのは上級貴族が済むための、いわば別世界の人間が生活する場所なのだ。


 何でこんな場所に、と思ったものの、黙ってエヴァラントについてゆく。ただ、嫌な予感だけは縮こまる兄の背中から感じ取って、進むごとにしかめっ面になっていった。


 歩けども歩けどもどこかの屋敷の壁が続く。終わったかと思えば、また別の屋敷の壁が始まる。だだっ広い道の端をとぼとぼ歩く兄妹とすれ違うのは馬車ばかりで、そうそう歩いて行く場所じゃないと、内心げんなりしていた。


 暫くして、一際立派な門構えをした屋敷の前で、エヴァラントが足を止める。ぴっちりと閉ざされた門の左右に門番が立っていた。その片方に声をかけ、何事か兄が告げると、門番は小さく頷き門の横の通用口から中へ入って行った。


 こんな立派な屋敷に一体何の用だろうか。不審に思いつつ、ふいと視線を上げた。無駄に大きな門の門柱のてっぺんには、赤い旗がひらめいている。刺繍された紋章を確かめる前に、戻ってきた門番に中へ入るよう促された。



 通用口を潜ると、目の前に森が広がっていた。森に似た庭園なのだろうが、手入れが大変そうだ。


 門から奥へ伸びる馬車道に、黒毛が引く馬車が一台、停まっていた。兄妹の姿を見ると、馬車の前に立つ御者が一礼し、ドアを開ける。無言で乗れと合図され、黙って従う。二人が乗り込むのを確認すると、案内してくれた門番は一礼し、それに合わせてドアが閉められた。

 御者台に乗り込む気配がし、すぐに馬車が動き出す。基盤がしっかりした馬車なのか、道がきっちり補正されているのか、あまり揺れを感じない。始終無言の車内の空気は重苦しく、何度もエヴァラントが咳ばらいをしていた。


 しばらくして馬車が停まった。静かにドアが開き、エヴァラントに続いてルーヴァベルトが外に出る。



「げ」と思わず声が漏れたのは、目の前に聳えたつ屋敷があまりにも立派すぎたからだ。



(何だこれ…)



 城かよ、と眼を見開いた。えらく背の高い玄関扉は、よく見ると細かい装飾が施されている。色は黒に似た茶の一色だが、だからこそ金のかかったものだとわかった。


 塵ひとつない白い敷石に立ちすくんでいると、扉が内側から開かれた。ギィと小さく軋む音と共に中から現れたのは、ピンと背筋を伸ばした灰髪の男。

 黒い執事服に身を包んだ男は、切れ長の視線を兄妹へ向けた。金の双眸が無表情に二人を見やり、ゆっくりと礼をした。



「お待ちしておりました」



 後ろで一つに結んだ髪が、絹糸のように肩にかかる。こちらへ、とテノールの響きが促し、言われるがままに扉を潜った。



「…ぅわぁ…」



 雰囲気に飲まれまいと、ルーヴァベルトは息を吐く。

 つるりと磨き上げられた大理石の床に、光沢のある深紅の絨毯が真っ直ぐに正面の大階段まで敷かれている。玄関ホールだけで、既にヨハネダルク家の平屋より広い。多分、二つ三つは家が入る。



「こちらです」



 執事が白い手袋をした手で階段へと誘うが、はっとした顔でルーヴァベルトがエヴァラントの腕を掴んだ。



「ちょ、ちょっと待った!」声は、思ったよりも大きくホールに響く。執事について階段へ向かおうとしていたエヴァラントは、びくりと肩を揺らして立ち止まった。その向こうで、灰髪の男も振り返ると、どろりと濃い蜂蜜色の双眸を彼女へ向けた。



「こんなところに、何の用があんの!」



 猫に似た瞳をきりりとつり上げ、ルーヴァベルトが詰め寄る。ヒッと小さく悲鳴を上げ後ずさる兄だったが、掴まれた腕を逃がすまいと力を込められ、更にヒイイと声を上げた。


 ずい、と兄に詰め寄ると、見上げる形で瓶底眼鏡を睨めつける。



「ちゃんと説明してくれるかと思ってここまで黙ってついてきたけど、ちょっともう限界だから! どういうことなんだよ!」


「る、ルー…」


「まさか、ここの人間に借金か? 借金したのか!」


「いや、その…」


「こないだ見慣れない本読んでたな? あれか! あんな高そうな本どうしたのかと思ったけど、借金して買ったのか!」


「聞い…」


「どんだけ生活能力無くて金勘定できなくても、借金だけはしないって信じてたのに! この馬鹿クソボケ兄貴!」



 最終的には胸倉を引っ掴み、その頬を力いっぱい引っぱたく。バッチーンと景気の良い音が響き、エヴァラントの首がぐるんと揺れた。同時に床に崩れ落ちかけた身体を、倒れさせるものかと妹が引っ張り、更にもう一発引っぱたこうと手を上げる。


 鬼の形相で振り下ろそうとした瞬間、手首を掴まれた。


 灰髪の執事だ。温度のない金眼が、ルーヴァベルトを見下ろしていた。筋張った指は、ひやりと冷たい。



「どうぞ、あちらへ」



 抑揚無く、テノールが告げる。「お部屋にご案内します」


 気の強さが滲む赤茶の双眸が、ぎろりと男を睨めつけた。この執事も上背がある。エヴァラントもひょろりと背が高いが、同じくらいありそうだ。


 ルーヴァベルトの視線を全く意に介する様子無く、男は繰り返す。



「どうぞ」



 不愉快さを隠そうともせず喉で唸ったルーヴァベルトは、何か言おうと口を開いた。


 その時。



「きょ、今日から!」と、エヴァラントが声を上げた。



「今日から! ここが! 俺達のお家です!」



 裏返った兄の声は、吹き抜けのホールに抜けるように響いて、消える。

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