遺されし君には ―劫火―
―――今、森の中にいる。
木々の間に。
活き活きと、
その手は……枝葉に向けられている。
足を進め、壁に近づく。
一瞬にして、部屋の一角を別世界に変えた、その絵に。
始めは……ただぼんやりとした色の集積にしか見えなかった。
弱視の
だが、距離を縮めるにつれ、
それらが……画面いっぱいに描き
―――しがない“美術品の修復師”? “自分では何も生み出さない” ですって?
―――とんでもないわ!
互いに重なり合う大小の枝……
それらが創り出す、偶然のかたち。
空間の、美。
空気の層が、あるかのようだ。
奥の枝と手前の枝の間に。
葉と葉の隙き間から漏れる光……
いま、まさに、射し込んで来ている。
揺れている。きらきらと
葉脈を透かし、葉の縁を浮かび上がらせて。
枝葉の中に見え隠れしているのは……
―――鳥、だ。
鳥たち。
あるものは
―――ため息が漏れる。
いま、どれほどのものが
そこに、確かに存在している“光”が……
サングラスに遮られることなく。
それは―――奇跡、だ。
生まれて初めて
これまでは、ただの凶器でしかなかった光を。
「旦那様の絵で……残っているものは、これだけなのです」
無限の没入へと
「こ―――これ1枚? 1枚、だけなの!?」
声が上ずる。
“これほどの作品をあらわす人の絵が?”
「ええ。あとは、焼き払われたのです。すべて」
―――聞き間違いか?
自分の耳を……自分の語学力を……いや、自分の脳を。
―――あり得ない。
そんなことが……
「……いったい、誰が!? 誰がそんな……」
「……先代、で、ございます」
「―――どうして? 理由は? いつ!?」
つい、詰問口調になってしまう。
目の前の老人を責めても仕方がないのに。
「……こちらの回廊が遺産指定を受けることになりました時に……先代は、旦那様に、“絵を買う側になれ。描く側ではない” と、おっしゃって」
それは、自分の喉から上がった音だった。
悲鳴……あるいは、喉を割り裂く音。
同時に……がくり、と、落ちたように感じた。執事の肩が。
「……何人かは、先代をお
―――無力感。
そうか。無力感だ。
この男の体をこんなにも小さく見せているものは。
「今も、はっきりと覚えております。あちらの庭に集められた
見たくなかった。
でも、見えてしまう。
炎に目を
聴こえてしまう。
あまりに野蛮すぎる。それが絵だろうと、罪は同じだ。
まして、産みの苦しみを味わい、自分の分身でもあったはずの作品を、目の前で焼かれるなんて……
「なんとか……皆で、ルイ様をお止めしたのですが……あちこちに
そういう執事の手にも、ひきつれがある。
きっと、
「……その後、原因の解らぬ高熱が続きまして……一時は意識も不明に。ようやく熱が下がり、お目覚めになられると……一転して、別人に」
―――別人。
今朝の
まさに、別人だった。
それまでの
「……絵を愛するルイでは、なかった、と……?」
「さようでございます。それ以来、絵画には一切興味をお示しにはならず、ただただ投資に明け暮れるだけ」
「それが……1週間ではないほうの、ルイなのね」
「すっかり
「“359日間のルイ”……」
日数。
おそらくそれが、
「……私を助けてくれたルイは……これを描いた、“7日間のルイ” なのね……」
“7日間のルイ” が。
今もまだ、伝わって来る……
新鮮なそよ風が……
「“身代わり” は……突然、始まったのです。先代が亡くなられたその秋に」
執事のこの言葉が、
「突然? では……皆さん、ずいぶん……混乱なさったのでは?」
「混乱……最初の年は、確かに騒ぎは、ございましたな」
「騒ぎ……」
「“身代わり” が起きるようになりましたのは、ずいぶんとものものしい梱包と警備で、この館に絵が運ばれた時からでございました」
「……絵が?」
「はい。絵画についてまったく関心を示されなくなっておられたはずの旦那様でしたが、それは旦那様がドゥルオーのオークションにて落札された、5枚の絵でございましたので」
「ええッ!?」
5枚の絵。ジェイコブ=フェルディナンド・フートが描いた、5人姉妹の……
「……彼だったの……あの絵を買ったのは!?」
「皆、驚きました。誰も知らなかったのですよ。その年は回廊の公開もございせんでしたし、なぜ突然絵を買われたのだか、まったく謎でした」
「……あなたがたに、何も説明は?」
「特に詳しいご説明はございませんでした。旦那様はただ絵を確認なさり、すべてを保管庫に運ぶようにとご指示を。大工には掛け札を頼まれ、ご自身で棚の配置換えなどもなさっていたのですが、その後、何時間経っても保管庫から出ておいでにならず……一昼夜、食堂にもいらっしゃらず。お食事をお持ちしても保管庫には飲食物を入れてはならぬとおっしゃって」
「絵と一晩……?」
「奇妙なふるまいでございましょう?」
「え、ええ……」
「奇妙ですとも。ですが、私には以前のルイ様らしい行動のようにも思えたのです。大旦那様もお隠れになられたからには、てっきり、絵の世界にお戻りになるおつもりかと」
「……違ったのね」
「翌朝に食堂にいらした旦那様は、もう、険しいお顔で、スマホの株価のチェックを。それきり、絵には見向きもなさらず……」
「もとに戻ったわけではなかった……」
「ですが、本当の異変は、その翌年の秋からでした。その年のテーマに合うとかで、回廊の公開が決まり……公開の前日のことでした。外出されてお戻りになられたルイ様が、まっすぐ保管庫に行かれると、1枚の絵……前年に購入された5枚のうちの1枚を、回廊の、飾り壁にお掛けになられたのです」
鮮やかに……その絵の記憶が。
―――ああ、きっと、あの年だ。
最初に私がここで “ロール=ヴィットリア” に気付いた年……
「その後は、回廊の公開が終わっても穏やかなご様子で……一切、投資のこともお忘れになられたかのようでした。私どもも皆、ようやくルイ様が元のように明るくお優しい、絵がお好きなルイ様に戻られたのだと喜んでおりました。ところが……」
「“359日間のルイ” に戻ってしまったと?」
「ええ。忘れもしません。あれは、回廊公開の前日から数えて7日目の朝のことでした。1週間前に掛けたばかりの絵をお外しになられ、別の絵に掛けかえられたのです。そしてその後、ふらりと外出され……」
―――ふらり。
あれは……まさに、ふらりだった。
「……数時間後には、お戻りになられたのですが……」
―――
ここから先は、これから起きること。
その、予言なのかもしれない。
「こう、おっしゃったのです。私の肩をポンと叩いて。“ドイツDAXで勝ったぞ! ECBの金融緩和継続が後押ししたからな!” と。……その後については、お察しかと」
執事の
ゆっくりと深く吸い、そして、吐く。
その音が。
「……さすがにこれは……ただごとではないと。おそらく……心のご病気だと」
「医者には?」
「……ルイ様のご指示なしにこちらにお医者様を呼ぶことはかないません。無理やり病院にお連れすることもできません。それで仕方なく、私が病気のふりを致す羽目に」
たぶん、
彼が、精神科の医師を同行させた。見習いだと偽って。
「……自己防衛のために起きる、人格交代の一種ではないか、ということでした。
よくは見えなくても、解った。
涙が膨らんでいる。
老いが見えかけた、本来は無表情なはずの男の目尻に。
「……なぜ、1週間だけ、もとに戻るの?」
「それがサッパリわからないそうで……いつかはそちらのルイ様が、366日のルイ様になってくださればいいと、お祈りしておりますが……」
「それって……今日よね?」
「は……」
「“そちらのルイ様” が366日になるかならないかってことが判るのは」
執事は、さらに深く、頭を下げた。
「はい。今日、で、ございます。……おそらく、あと1時間ほどではっきり致しますかと……」
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