遺されし君には ―真実の扉―



「先々代も、先代も、それは厳しいお方ばかりでして……」



指先に触れる、柔らかな毛足。

彼女ルイの癖だ。無意識の。

質感を確かめずにいられなくなるのだ。

自分の周囲のものを触って。


それは、彼女ルイが自分の身に降りかかる何かを受け止めなければならない時の、癖なのだ。


彼女ルイの指が触れているのは……今、座っている談話室サロンの椅子の座面。そのビロードの表面だった。


目の前の執事は……立ったまま、話している。



「旦那様が美術の道を歩まれることを、先代は、とうとうおゆるしになりませんでした」


……このだけで、もう、彼女ルイは気が遠くなるのを感じていた。




昨日、あんなにも色んな話をしたのに……

ルイは、家族については、触れなかった。ほとんど。


頭の隅には引っかかっていたのだ。


だけど―――全部と……あれほどと言っていたのに……

それは、嘘だったの?


それとも……どうしても言いたくなかったの?

セクシュアリティについては話せても。




「……ご存知とは思いますが、このフランスには正式な貴族制度はすでにございません。ございませんが、今なおブルボン家の当主ご夫妻は、ロワ王妃レーヌの称号で呼ばれており、それにならって、かつての貴族の家柄の者も、革命と戦争を生き永らえて屋敷なり何なりがひとつでものこってさえいれば、なんとか有形無形の資産を継承しようと、涙ぐましく努力する家が多いのです」



彼女ルイは、サロンを見回した。



……


いったい幾百人の手が、その柱を……調度品を磨き上げて来たのだろう?

深い色艶いろつやが、時間を語っている。


きっと、あの “青の部屋” も、そののために、あのままになっているのだ。

ドルセー伯が天井を仰ぎ見て、そう名付けたという……その時のまま。

そこでうたげが開かれることなどなくなってしまったにもかかわらず……



「……幸い、先々代は、非常に投資の才覚に優れたお方でしたため、この家には、私共を含めてこの城まるごとを、あと数十年はたっぷりと維持するだけの財がございます。ですが、先々代の男のお子様は、先代おひとりでして」



執事は、そこでひとつ、咳ばらいをした。

そして体をひねり、彼女ルイの顔に上体を近づけた。


限りなく声を落として。

そこから先は、極秘条項であるかのように。


「先代は、その……投資の才にはお恵まれにならず……ところが旦那様はと申しますか、本当に……に、非常にけていらっしゃったのです。それで、この家の維持のためには、お孫様である旦那様を是が非でも投資に集中させねばと……先々代がおっしゃいましたのが、ことの発端でございまして……」



「ああ……」


彼女ルイは呻いた。


―――貴族という、過去の幻想。


伯爵家。

もはや実体を伴わないはずの、家格かかく

いや、実体は……この、17世紀の城館か。

ルイは、それらを護るために、天から与えられた2つの才のうち、ひとつを封じなければならなかったというのか?


それが正しいと?


いくら祖父でも、孫の未来を奪う権利なんて、ないはずだ。


「彼の……お母様は?」


「……残念ながら、お産の際にお亡くなりに……」


―――それで判った。

ルイから、母親像のようなものが感じられない理由が。


「じゃぁ、お父様は、いつ……?」


執事は、すぐには答えなかった。

しばらくこうべを垂れたあと、こう言った。低い声で。


「旦那様は、あなたさまに、なんとご説明を?」



彼女ルイの瞳が、ほんの少し、泳いだ。



たった一度だけルイが口にした、家族のこと……

でも、なぜ?

なぜこの人はそれを訊くの?


「……ご両親は、ここの先代当主の妹ご夫妻で……お二人とも、お若い頃に亡くなられたと。いつ、とは聞いていませんけれど」



執事はしばし無言になった。



どれぐらい、無言の時間が経っただろう。

10秒? 1分? それとも……



「先代の妹様ご夫妻は、お二方ともでして。それに



彼女ルイの喉から、小さな悲鳴が上がった。



それは、かけ離れた答えだった。彼女ルイの想像からは。



―――薄々うすうす、感じてはいたのだ。何か、おかしいと。

はっきりと何がどうとは言えなかったが、“彼” の説明には、見え隠れしていた。矛盾の “かけら” のようなものが。


でも、まさか……


「じゃあ、彼は……」


「はい。旦那様―――ルイ様は先代のご子息でございまして、の、この伯爵家の末裔まつえいでいらっしゃいます」



彼女ルイは、言葉を呑んだ。

何かが違うと思っていたとは言え……



―――しかし、そうなると、むくむくと大きくなる。もうひとつの疑念が。



「でも……でも、それなら彼が言う “” というのは?」


執事の眉が、くい、と、曲がった。

これまで目にしたこともないぐらいに。



その表情は……複雑だった。

けれども彼女ルイには、何故か、その複雑な皺の中に、この……老いかけている男の心のうちが、ほんのわずか、見えた気がした。

“とうとう来たか” という風にも、“言いたくないのだが” という風にも。



しばらくの沈黙のあと、執事は顔を上げた。

そして……と、サロンの壁に近づいた。

彼女ルイかたわらを離れて。



「……ご成年前の旦那様は、どうしても伯爵の称号を継ぐのが嫌だとおっしゃっていたのです……画家でありたいと」


「両立は? 両立はできなかったの? つまり、伯爵として投資をしながら、画家になるということだって……」


「もちろん、理屈の上では可能でございますよ。禁じる法律があるわけでなし。ところが先代はがんとして反対されたのです。画業をやらせると投資の感覚が鈍る、この家の将来が危うくなると先々代からもきつく言われている、と、その1点張りで」



それは……カンヴァストワルに向き合っている間にも、株価は変動するだろう。

だけど……



「思い余った旦那様は、叔母様ご夫妻にご相談なさったのです。叔母様、つまり先代の妹君いもうとぎみは学者とご結婚されており、旦那様にご理解がありましたから」


ああ、と、彼女ルイは思った。


―――私にも、経験がある。

自分に理解を見せてくれる大人。

、と、何度思ったか、わからない。


彼は……ルイは、のだ。きっと。


「……叔母様ご夫妻の真剣なとりなしで、先代も、ひとまずは譲歩なさったのです。美術の勉強だけはして良い、ということに。学費などは叔母様ご自身が援助なさるという条件で」


「彼にとっては、その叔母様夫婦が救いの道だったのね……」


「そのご援助で、旦那様は美術学校に進まれました。ご自身は本気で画家になるおつもりで……先代は、はじめのうちこそ、どうせ絵の才能などないのだからと放っておかれたのですが……在学中のルイ様が大きな賞を立て続けに受賞され、個展の話もひっきりなしとなるに至り、ついには看過かんかできぬとおっしゃられ……」


執事はそう言いながら、を引いた。ぐい、と。




「あ……!」




それは、ほとんど一瞬だった。




縦にのだ。

それまで、壁に見えていたところが。

幾つもの―――縦に長い、筋状に。



ブラインドだった。



そのブラインドが、パタパタと折りたたまれて行く。

執事が引いている。紐を。



壁が……開いていく。

電気音を立てて。




“扉だ!”




―――彼女ルイは、扉が開いたのを感じた。

心の扉が……ルイの。



―――現れたのは、巨大な絵だった。

一面いちめんの。

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