遺されし君には ―真実の扉―
「先々代も、先代も、それは厳しいお方ばかりでして……」
指先に触れる、柔らかな毛足。
質感を確かめずにいられなくなるのだ。
自分の周囲のものを触って。
それは、
目の前の執事は……立ったまま、話している。
「旦那様が美術の道を歩まれることを、先代は、とうとうお
……このくだりだけで、もう、
昨日、あんなにも色んな話をしたのに……
頭の隅には引っかかっていたのだ。
だけど―――全部と……あれほどまるごとと言っていたのに……
それは、嘘だったの?
それとも……どうしても言いたくなかったの?
セクシュアリティについては話せても。
「……ご存知とは思いますが、このフランスには正式な貴族制度はすでにございません。ございませんが、今なおブルボン家の当主ご夫妻は、
涙ぐましい努力……
いったい幾百人の手が、その柱を……調度品を磨き上げて来たのだろう?
深い
きっと、あの “青の部屋” も、その継承のために、あのままになっているのだ。
ドルセー伯が天井を仰ぎ見て、そう名付けたという……その時のまま。
そこで
「……幸い、先々代は、非常に投資の才覚に優れたお方でしたため、この家には、私共を含めてこの城まるごとを、あと数十年はたっぷりと維持するだけの財がございます。ですが、先々代の男のお子様は、先代おひとりでして」
執事は、そこでひとつ、咳ばらいをした。
そして体を
限りなく声を落として。
そこから先は、極秘条項であるかのように。
「先代は、その……投資の才にはお恵まれにならず……ところが旦那様は隔世遺伝と申しますか、本当に……その才に、非常に
「ああ……」
―――貴族という、過去の幻想。
伯爵家。
もはや実体を伴わないはずの、
いや、実体は……この、17世紀の城館か。
それが正しいと?
いくら祖父でも、孫の未来を奪う権利なんて、ないはずだ。
「彼の……お母様は?」
「……残念ながら、お産の際にお亡くなりに……」
―――それで判った。
「じゃぁ、お父様は、いつ……?」
執事は、すぐには答えなかった。
しばらく
「旦那様は、あなたさまに、なんとご説明を?」
たった一度だけ
でも、なぜ?
なぜこの人はそれを訊くの?
「……ご両親は、ここの先代当主の妹ご夫妻で……お二人とも、お若い頃に亡くなられたと。いつ、とは聞いていませんけれど」
執事はしばし無言になった。
どれぐらい、無言の時間が経っただろう。
10秒? 1分? それとも……
「先代の妹様ご夫妻は、お二方ともご存命でして。それにお子様はいらっしゃいません」
それは、かけ離れた答えだった。
―――
はっきりと何がどうとは言えなかったが、“彼” の説明には、見え隠れしていた。矛盾の “かけら” のようなものが。
でも、まさか……
「じゃあ、彼は……」
「はい。旦那様―――ルイ様は先代のご子息でございまして、ただおひとりの、この伯爵家の
何かが違うと思っていたとは言え……
―――しかし、そうなると、むくむくと大きくなる。もうひとつの疑念が。
「でも……でも、それなら彼が言う “身代わり” というのは?」
執事の眉が、くい、と、曲がった。
これまで目にしたこともないぐらいに。
その表情は……複雑だった。
けれども
“とうとう来たか” という風にも、“言いたくないのだが” という風にも。
しばらくの沈黙のあと、執事は顔を上げた。
そして……つかつかと、サロンの壁に近づいた。
「……ご成年前の旦那様は、どうしても伯爵の称号を継ぐのが嫌だとおっしゃっていたのです……画家でありたいと」
「両立は? 両立はできなかったの? つまり、伯爵として投資をしながら、画家になるということだって……」
「もちろん、理屈の上では可能でございますよ。禁じる法律があるわけでなし。ところが先代は
それは……
だけど……
「思い余った旦那様は、叔母様ご夫妻にご相談なさったのです。叔母様、つまり先代の
ああ、と、
―――私にも、経験がある。
自分に理解を見せてくれる大人。
こんな人たちが自分の親だったら、と、何度思ったか、わからない。
彼は……
「……叔母様ご夫妻の真剣なとりなしで、先代も、ひとまずは譲歩なさったのです。美術の勉強だけはして良い、ということに。学費などは叔母様ご自身が援助なさるという条件で」
「彼にとっては、その叔母様夫婦が救いの道だったのね……」
「そのご援助で、旦那様は美術学校に進まれました。ご自身は本気で画家になるおつもりで……先代は、はじめのうちこそ、どうせ絵の才能などないのだからと放っておかれたのですが……在学中のルイ様が大きな賞を立て続けに受賞され、個展の話もひっきりなしとなるに至り、ついには
執事はそう言いながら、何かを引いた。ぐい、と。
「あ……!」
それは、ほとんど一瞬だった。
縦に割れたのだ。
それまで、壁に見えていたところが。
幾つもの―――縦に長い、筋状に。
ブラインドだった。
そのブラインドが、パタパタと折りたたまれて行く。
執事が引いている。紐を。
壁が……開いていく。
電気音を立てて。
“扉だ!”
―――
心の扉が……
―――現れたのは、巨大な絵だった。
壁
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