8番目の不思議 ―魂の恍惚―
どれほどの時間を過ごしただろう?
それから……
2人きりで。
ルイと、僕。
出入りは、禁じた。
『金の間』へは。
誰も立ち入らせなかった。
執事にも、部屋係にも……
扉からこっちには、誰も。
そこで起きたことを……
ルイは、こう呼び始めた。
ある瞬間から。
“
……そんな言い回し……僕も使ったことなかったけど……
それは、あまりにもぴったりだった。僕らの気分に。
そう思ったとたん、もう、それ以外の表現は考えられなくなった。
そう、まさに “
“世界の7不思議を超えるほど凄いもの”。
―――要するに、それほどものすごいということだ。
僕らに起きたことは。
ルイの小さな打ち明け話。
それをきっかけに、僕らの間に “試合” が始まった。
とても奇妙な “試合” だ。
互いに互いの問題をぶつけ合う……
言い換えるなら、“告白合戦” だ。
僕らは、ぶちまけ合ったのだ。
『重大な
普通なら、打ち明けた途端に百年の恋も冷める……というような
僕らは打ち合った。
まるでゲームか何かみたいに。
誰に話しても理解してもらえないだろう。
こんなこと。
なぜなら、互いにどちらの手札がより大きいのか……どちらが相手よりもっとひどい手札なのかを争うようなものだったから。
たとえば、こんな具合に。
彼女は言う。
自分は “
そしてそれは “罰” なのだ、と。
“自傷行為” として “無意味なセックス” を繰り返して生きて来たから、“罰” を受けたのだ、と言う。
「本当はセックスなんか、もうしたくない。うんざりよ」
もちろん、その言葉には、僕への
―――ほら、どう? 私はこんな女なの。
―――私なんかに、もう興味はないでしょ?
―――あなたにふさわしい人間じゃないの、私は……
言葉を “
彼女が自分自身を
でも、僕は打ち破ってしまった。その
あっさりと……いとも簡単に。
「良かった。僕にはそもそも性欲がないんだ。
すると、ルイはすかさず第二弾の攻撃を繰り出して来た。
「私は……
「日焼け止めが最優先だから、メイクなんかしてられない。
「ドレスなんて着れないし、着たくない。
―――解ってる。
それは……僕の肩書に対する防衛だ。
僕はそれにこう返す。
「ごめん、実は僕は伯爵なんかじゃないんだよ。ただ1週間、身代わりを引き受けているだけなんだ」と。
やがて、僕らは笑い始めた。
どちらから?
覚えてない。
何を言ってもお互いにすぐに返してしまう間合いが……あまりにも奇妙で。
ルイも僕も、笑いが止まらなくなった。
ひとしきり笑い転げて腹筋が痛くなり、2人で水をがぶ飲みした。
「私はね……セックスするたびに、相手に自分を “殺させてる” んだな、って思っていたの」
「殺させる?」
「……だって、誰かの体を使ってそうすると、父の支配が断ち切られる気がしたから。父が望む娘になりたくないのに逃げられない自分を、殺させたかったのかも」
ルイの父親は、ルイを『自分の子ではない』と言い続けた。
ルイが何をしても気に入らず、何でも頭から否定した。
なのに、ルイを手放そうとはしなかった。
ルイが自分の意志を貫こうとすると “従わないなら親子の縁を切る” と脅した。
そう言えば、母親が苦しむ……それをルイが望まないと知っていて。
常に強要したのだ。服従を。
「
ルイは言う。
日本人は、みな無自覚に “儒教” に縛られていると。
皆、そうやって生き延びて来たのだと言う。
絶対的な家長である父親が、妻や子を支配して。
僕の話なんて……取るに足らないものだったのかもしれない。
ルイの打ち明け話に比べたら。
僕の本当の仕事は美術品の修復師……だけど、あまりうまく説明できなかった。
僕に財産がほとんどない、なんて話も。
ほぼ、スルーだった。
僕がくよくよ悩んでいたこと。
マリの絵に
時折、マリと会話もするし、夢にまで見てしまうこと。
少し恥ずかしかったが、ルイは耳を傾けている。
興味深そうに。
―――とうとう、僕は、口にした。
ずっと言わずにいたこと。
僕がなぜ、惹かれているのか。
マリに……
あの絵のマリに、なぜ惹かれているのか。
……美しさだけじゃないということを。
そこに、影があるからなのだ。
あの絵のマリが、僕を強く惹きつけて放さないのは。
その陰影は……一種のみにくさだ。
でも、それを持ち合わせているからこそ、
だからこそ、僕は強く惹かれる。
―――僕は驚いた。
ルイが……とても嬉しそうな顔をしていたから。
「人間には負の部分があるからこそ、美点が輝くのよ」
実は、
「私はね……あの絵を見たとき、まるで鏡を見たように感じたの。顔立ちじゃなくて、表情がね。ああ、私たちは似たものどうしなのだと思った」
「それって、きみの……
「うーん……そうね……親から愛されなかったという共通点はあるわね。マリも私も、ただ生まれたというだけで
「笑えない……」
「そう。あの絵のマリは、どう見ても笑ってなかった。特に、目が」
「……微笑んでいるみたいだけど?」
ルイは、不意に僕の前に向いた。
―――真剣な……というか、怒ったような……困ったような顔で。
そして、すぐに唇の端をキュッと上げた。
唇の端だけを。
「ほら、ね。口角を上げるだけなら……泣いていても、できるのよ」
「そう、か……」
今、目の前に絵はない。
でも、ありありと思い出せる。
マリの唇……
あれは、微笑みではなかったのか……
「絵を見た後で、彼女の生い立ちを読んで……それで思ったわ。マリは本当にオルタンスと顔立ちが似ているって。だけどたっぷりと愛を注がれて育ったオルタンスと違って、マリは愛されなかった。だから笑えないの」
天真爛漫なオルタンス。愛される自信があるオルタンス。
一方、マリは、愛されないことが
常に何かに怯え、何かに怒り、内なる火を閉じ込めていたのだろう。
特にあの絵は……
「ルイ14世に愛されて、結婚を夢見ていたときのマリは……素晴らしい笑顔を見せていたそうよ。だから、彼女の歯並びがとても美しいことに、当時の人々はすごく驚いたんですって」
「知ってるよ。彼女は歯並びと……声も美しかったって」
「マリは……たぶん、自覚はなかったんじゃないかしら。笑えば美しいのに、笑わないから “醜い” とまで言われてしまう。でも、愛されてこなかった人が、そういう経験がない人が、その違いになんて気づけるわけがないわ……」
僕は、背中を押された気がした。
……
“そういう経験がない人が、その違いになんて気づけるわけがない”
性欲がないと指摘され、
だって、僕には経験がなかったんだ。
自分から人と寝たいと思う経験が。
人がこうあるべきだという姿と、どう比べろと? 初めから“ない”ものを?
それが人を傷つけてしまうのだということを、概念としては学べる。
でも、それだけじゃ……誰かを傷つけないという自信なんて、得られない。
僕は笑えないマリと同じだ。
僕には誰かを性的に求めることができない……
それが、ルイを傷つけるかもしれない。
そしてそれが自分に判断できないことが、怖い。
―――僕は打ち明けた。
自分の、その不安を。
「……傷つく? 私が? どうして?」
「だって……僕がきみを求めなかったとしたら……」
「どうして? 私が求めたら断るの?」
「いや、そうじゃない。でも……」
「反応はするって言ったわよね? だったら、スイッチを入れればいいってだけなんじゃない? 例えば……そうね、私がその気になった時だけ」
「……え……?」
「ねぇ……聞いてた? 私は……うんざりしてたのよ、セックスに。特に、相手から求められるのは嫌なの。でも……ぜんぜんしたくないってわけじゃないの。私がしたくなれば、あなたのスイッチを入れるわ。いつかね」
―――
僕の中に……突然、やって来たのだ! “安堵” が! “解放” が!
なんと……簡単に!?
僕も……おそらくルイも……無理はしないでいいんだ。
演じなくていい。
少なくとも、僕たちお互いの前では。
僕らがそれぞれに、勇気を振り絞って打ち明け合った『重大な
それが、相手にとっては
僕らは、互いをまるごと受け入れることができる。
しかも、やすやすと。
―――これは、ものすごいことだ。
まさに、“
この“奇跡”は、僕らを興奮の渦に巻き込んだ。
そして……いつしか深い眠りに落ちた。
話し疲れて。
『金の間』の、天蓋付きのベッドの中で。
僕らは互いに腕を差し出して、互いの体を抱きしめていた。
ルイの手が僕の体を抱きしめ、僕の手がルイの体を抱きしめる。
と言っても、もちろん部屋着を着たままで。
ただ、抱きしめるだけだ……
何もない。
あの、薄い羽のようなキスよりも、よっぽど。
ただ互いを抱きしめる、ほんとうにただそれだけで、ひとつになれる。
そんなことが、実際にあるなんて……
ルイの肌のぬくもりが僕に伝わる。
部屋着の……薄く、
僕の体温も、きっとルイに伝わってる。
額と額が、頬と頬が近づく。
何かが互いの間に走る。
静電気みたいな? 痛くはない。ただ、感じるだけだ。温かさを。安心を。
2人の
明け方、だろうか。
ふと、目を覚ました。
ルイも目を開いていた。
だけど体を離すのが嫌で、そのままそっと腕に力を入れた。
「……どう?」
体を抱きしめたまま僕が訊くと、ルイは答えた。
「……いいわ」
とだけ。
そして……
これはおそらく、経験した者にしかわからないだろう。
互いに抱きしめ合っていると……
ルイが、小さく呻いたのだ。
「うん」と。
体を……少し、もぞもぞとさせて。
そのうち、微かなうねりが伝わって来た。
それは、ルイの体から伝わって来たものだった。
僕はそのうねりにも、その「うん」にも、覚えがあった。
「……
ルイは、僕を見た。
僕の頬から自分の頬を離して。
僕の水色の目とルイの淡い色の目が正面から重なっている。
「……いま、何が起きたか……わかる?」
僕は黙って
言葉にする必要はない。
ルイの目に浮かんだ、涙とも違う
そして頬から目じりにかけて染め上げている薔薇色。
額にじんわりと滲む汗……
あえて言おう。
それは……喩えて言うなら、射精を伴わない恍惚のようなものだと。
あるいは、心が満たされ尽くした果てに訪れる、絶頂だと。
確かに、それは起きた。
そんなものが起きるなんて、誰も信じないだろうが……
服を脱いだかどうか……そんなことは、どうだっていい。
僕らは証明したんだ。
互いの間に何があっても、僕らは溶け合える。
互いの中に、互いを感じる。
何も言わなくても。
でも、これを……一体、なんと呼べばいいのだろう?
どういう概念で?
魂の恍惚。
そう呼んだら、少しは解ってもらえるだろうか?
―――いや、理解されなくったっていい。
それは、確かに僕らの
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