8番目の不思議 ―気づき―



ルイはなかなか絵の前を離れようとしない。



でも、熱でさんざん消耗した体は……疲れているはず。

あまり、無理はさせたくない。



スマホの時計を見て、僕はルイを促した。



「ルイ……そろそろベッドに戻っては? お腹がすいているようなら、食堂に行けばいいし。きっと何かあるから……」


「……そうね」


疲れを自覚していたのだろうか。

意外にも、顔を上げたルイは、素直にうなずいた。


「そうするわ。ありがとう、伯爵」





『緑のサロン』からルイが出ると、僕は早速、取り掛かった。

“マザリネットたち” の片付けに。



―――何も、考えていなかった。

片付けを始めた時の僕は。



少しばかり勝手が違ったせいだ。いつもとは。

だったから……

この部屋に……他人を入れたのは。


いつもの片付けよりも、手間取った。

彼女ルイのために用意したイーゼルやアクリルカバー……

普段は使わない、それらのものをしまうのに。



ひと段落ついた時……



マリ=アンヌの肖像―――オルタンスの代わりにこれから掛けるつもりの―――を除く、4人の絵の函を片付け終わった時。



突然、襲い掛かって来たのだ。

僕の胸に……

言いようのない、負の感覚が。



―――なんだ?

この感じは……


苦しい……

すごく。

胸を引き絞られるような。




寂しさ……

そう。これはだ。




僕は、手を止めた。


そして、思い返そうとした。


去年のこと、一昨年のこと……そしてそれ以前のこと。



こういう感じを味わったことが、あったか?

―――浮かんでこない。何も。



回廊の公開が終わると、静かに……絵を見るだけの穏やかな日々を過ごす。

そうして、待つ。期限を。


その間……『彼』が戻って来ることへの不安を感じたことがあったか?

鍵束を返したくない、と、思ったことが?



「ああ……」



鈍い、痛みのようなもの。


それが、現れた。僕の中に。


じんわりと、熱を帯びている。

のあたりが。



何かに……そこを鷲掴みにされ、引っ張られる。

そこから来る衝撃が、心臓から上へと駆け上り、鼻の奥……を、直撃する。



―――違う!!



こんな感じは、感じたことがない!

今までに……一度だって!



何が違う!?

去年、一昨年……それ以前と……


―――ああ!

答えは明白だ。

それしかない。は。



ルイ……



いま、はっきり判った。



僕は、ルイを帰したくないのだ。

ここからも。

日本へも。



同時に、恐ろしいことに気がついた。



―――僕は! 

なんという愚か者だ!?


どうして、マリの絵を見せてしまった?


これでもう……彼女ルイがここに留まる理由がなくなってしまったじゃないか!



なぜ―――なぜ、気づかなかった?

こんな重要なことに!



そう……彼女は自由だ。



もうここに留まる理由がない。

今はただ、身分を証明するものも、資金もないだけ。

それだって……大使館に行けば、なんとでもなる。



「ルイ……!」



僕は、飛び出した。

『緑のサロン』を。



「ルイ!」



響く。僕の声が……



「―――伯爵?」



返事があった。

思いがけない方角から。



ルイは、飛び出した僕の真後ろに居た。



―――また、体を乗っ取られた。

そう、思った。

解らなかったから。

自分の行動の意味が……



咄嗟に、左右に広げた腕。

口から転がり出た、言葉。

その意味が。



行かないでヌ・キテ・パ……!!」

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