ルイとマリ ―光と影―
「無作法な、っていう意味もあるのでしょ? ……
ルイは再び椅子に掛け、アクリルカバーを取り付けた “マリ” に、正面から向き合っている。
「そうだね……みっともない、っていう意味でも使うね」
「王侯貴族の礼儀作法では、相手の肉体的欠点をあげつらうことは、あんまり、しなかったはず」
「うーん、まぁ、そうだね。そうかな……」
「以前、読んだことがあるの。“クルタンの礼儀作法書” という本で」
「いや、残念ながら、僕は読んでいません、
アントワーヌ・ド・クルタン……名前を知っているという程度でしかない。
今どき、そんな指南書で子供を
「先生はやめて、伯爵」
ルイの頬が、さっと赤くなる。
わかりやすい。
「……当時、伯爵夫人やら公爵夫人やらが送り合った手紙をさんざん読んで来たの。そういう書簡の中にも、マリについて
「なるほど……」
アクリルカバーの上でルイの指が動く。マリの顔をそっと撫でるように。
「ローマの
僕がその絵に心当たりがなさそうにしているのを見て、ルイはまた、指を差し出した。
僕のスマホ。ロックを外して、渡す。
彼女は何やら打ち込んで、画面を見せた。
一目見て彼女だと解った。
でも、初めて見る絵だ。
確かに……美しい。
そこには、肩に羽織った毛皮のマントを片手で押さえる女性が描かれていた。
ふっくらと丸みを帯びた体つきには熟女っぽさが感じられるが、その顔立ちは、確かに僕のマリの “その後” だ。
耳には大粒の真珠のドロップイアリング。
首もとには、僕のマリのと似たネックレス。
ルイは自分とは“似てない”と言うけれど、やっぱり
ルイがふくよかになったら、きっとこんな感じだろう。
「ね? 綺麗でしょ? 少なくとも、造形的な欠点は見当たらないわ」
まさしく……この2枚のマリの絵を見れば、
「私はね、彼女が悪い評価しか得られなかったのは、礼儀作法を知らなかったからだと思っているの」
「礼儀作法を? それって……」
「母親は、育児放棄。マリが放り込まれた修道院は、ほとんど養老院。宮廷の礼儀作法なんて教えなかった。だから、そこから出されたとき、彼女は貴族の娘として必要なマナーを全然身に着けていなかったの。バロック時代の宮廷で、礼儀作法を知らないなんて、たぶん、致命的欠如だったはずよ……」
僕は
実は、はっきりと覚えているのだ。
僕のマリ……フートが描いた、この絵……を初めて目にした時のことは。
あの時、僕は、そこに美しさと醜さが同居していると感じた。
もちろん、その「醜さ」とは、容姿のことじゃない。
―――“影”、だ。
今の今まで、忘れていたけれど。
マリのこの絵を初めて見た時、美しさと醜さ……影……が共存しているのを感じた。
だからこそ、
影があるからこそ、美しいのだと。
「それで……科学的な分析は?」
僕は、ハッと顔を上げた。
途中から
「科学的分析は、なさったの?」
ルイが今言っているのは、重なった絵の具の年代や、
「それは……」
言葉に詰まった僕に、ルイは「そうね……美術館ではないんだものね、ここは」と言って、にっこりと笑う。
でも、がっかりしているのは、明らかだ。
そうだ。鑑定書が……函の中に入っているはずだ。
「……えーと……」
僕は函から鑑定書を取り出した。
でも、大したことは書いていなかった。
「この絵が描かれたのは、1665年ごろ……それぐらいだ」
あとは、画法と
僕もがっかりだ。
でも、ルイはそうでもなかった。
「1665年? もう、イタリアよね。マリがロレンツォと結婚させられたのは……確か1661年だったと思うわ」
「ナポリの貴族、だったっけ?」
「ええ。ロレンツォ・オノフリオ・コロンナ」
「1661年に結婚ということは……この時は結婚4年目ってことか」
「そう。もう破綻していたはずよ、この時」
「え……結婚が?」
「そう。子供を毎年産まされて、それ以上の出産に恐怖を感じたそうよ。おまけに浮気もされてね」
「うわ……」
「描かれたのが1665年ごろだからと言って、必ずしも破綻が絵に現れたとは限らないけれど……仮にモデルになったのがもっと前だったとしても、この絵の彼女は決して幸せそうではないわ……」
僕は、肯定も否定もしなかった。
僕は何も知らなかったのだ。イタリアでのマリについて。
もちろん、そこにそんな苦悩があったことも。
幸せでなかったかどうか?
僕には解らない。
でも、絵だけ見るなら、僕が感じた “影” は、まさに、当時のマリの心が発したものだと思える。
愛する者と引き裂かれたことによる、絶望。不信。喪失感。
空虚な心の闇。
そんなものを抱えながら、ドレスを着て髪を結い、ネックレスを着け、絵のためにポーズを取る……ある種の
それらが、この絵にははっきりと表れている。
だからこそ、この絵だけが、僕の心を掴んで離さなかった。
他の絵では、ダメなんだ。
一般にはどうだろう。
世の中には、影を愛さない者もいる。
見たくないのだ。
どちらかと言うと、そういう者の方が多いかもしれない。
17世紀のフランス宮廷……能天気なオルタンスに人気が集中し、マリは “醜い” と言われた。
ルイが言うようにマリが無作法だったから?
きっとそれだけじゃないだろう。
マリには、影があったんじゃないか。
ルイが言うように、母親の愛を得られなかったのなら。
ルイは、アクリルカバーの外側から、思いっきり顔を絵に近づけている。
ネックレスのあたりをじっと眺めている。
まるで本当に宝石を見る鑑定士のようだ。
僕は少し迷ったけれど、スマホをルイに渡した。
「写真、撮ってもいいよ」
「……え? 本当に? いいの?」
彼女がフラッシュを使うとは思えなかったし、そうしたほうがいいと思った。
ひとしきり写真を撮った後、ルイは少し距離を取って、絵の正面に立った。
顔を上げて、目を細めて。
「……うん、やっぱり、そう」
そう言って、彼女は僕を見た。
「この絵。やっぱりこれは、本物のマリ・マンシーニよ」
ずいぶん、突飛な断言だ。
「え? ど……どうして?」
「理由はないわ。ただ、そう感じるの」
「……でも、それじゃ……研究の確証にはならないんじゃ?」
ルイは、静かに
―――凄まじい、 “破壊力” !
破壊……そう、破壊だ。
僕は、打ち砕かれた。
その笑みに。
この一瞬に。
「私が “確かめたい” と言ったのは、論文に
「え……じゃあ、どういう……?」
「自分の考えに確信を持つためよ。もっと言えば、自分が生きる道に自信を持つため」
意味が解らない。
「もしもここでこの絵を見て、マリだと感じられなかったら……マリがつけているこのネックレスが、アンリエット=マリ・ド・フランスのものだと思えなかったら、私は、これから先、2人の “哀しみ” について書くことができなくなる。それは嫌だったの」
「……哀しみについて?」
「ええ」
ええ、と、言ったきり、ルイは黙った。
その横顔……とても
きりきりと引き絞る……僕の中の何かを。
―――“哀しみ” について書く。
それって……どういうこと?
僕にはその質問を口にすることはできなかった。
無理には聞かないほうがいいこともある。
彼女が自分から言いたくなるまでは。
僕は、彼女の瞳の中に、闇を感じたのだ。
明るい闇を。
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