ルイとマリ ―序章―



チキンスープブイヨン・ド・プーレに、ルイは飛びついた。



“日本では病気の時にコメの煮たものを食べるそうなのですが”、と、シェフはずいぶん申し訳なさそうにしていたらしい。



シェフは、この2日間、ルイのためにさまざまなものを用意してくれていたのだ。


水はもちろん、いろんな種類の果物、ミルク、なめらかなヴィシソワーズ……


だが、熱が続いていた間にルイが受け付けたのは、絞ったオレンジジュースをミネラルウォーターで割ったもの……それと、ほんの少しのフルーツだけだった。



今は違う。

スープボウルテト・ド・リヨンをあっという間にからにして、ルイは、さらにお代わりまで……


ここにシェフがいたら、になったことだろう。


「病み上がりなんだから、あんまり無理しない方がいいんじゃないの?」


僕はからかったが、ルイは鼻にしわを寄せ、フルーツサラダサラド・ド・フリュイのイチゴにフォークを突き刺し、口に運んでいる。


「ねぇ、ルイ。さっき君が言ってたことって……」


「? 何? どの話かしら……」


「その……マリが……つまり、母親との関係が悪かったってこと?」


大抵たいていのフランス人は、マリ・マンシーニの存在は知っている。

でもそれはルイ14世の数多くの愛人のひとりとしての認識に過ぎない。


僕はさすがにもう少し知っているけれど……

それでも “愛人ではなく初恋の相手”、そして “大凶の星を持って生まれたと言われる女” というぐらいだ。

母親との関係なんて、知るよしもない。


ルイはもうひとつ、イチゴを頬張りながら、小首をかしげた。


「……彼女の生まれはローマ。それは知ってるわよね」


「そりゃそれぐらいは……」


「父親は、イタリア貴族、マンチーニ男爵。占星術者よ」


「え……貴族で、占星術者?」


僕が驚いたのを見て、ルイは目を大きく見張った。


「いやだ。伯爵? フランスも、かつてはそうだったでしょ。貴族の多くは学者だった」


「それはそうだけど……」


どの国でもそうだろう。貴族は労働してはいけなかったのだ。

だから、芸術をでるか、遊興ゆうきょうにふけるか、あるいは研究に没頭したのだ。


「だけど、占星術って……」


「あら、占星術は、17世紀では立派な天文学であり科学だったのよ」


「ふーん、そんなものなのか」


「マリが生まれた時、父親は娘のホロスコープを読み解いて、“この子はすべての災いのもとになる”って観立みたてをしたの。だから、マリの正確な誕生日は記録されていないの」



“大凶の星を持って生まれた”という説は、そこから来ていたのか。



「父親はマリを可愛がっていたみたい。天文台に娘を連れて行って遊ばせたりしてたし。彼自身、自分や妻、そのほかの子供たちの死期を知っていて、覚悟していたそうよ。でも、母親は違った」


ルイは立ち上がり、コンソールに向かった。

彼女の身を包んでいるのは、黒いブラウスとベージュのロングパンツだ。


抽斗ひきだしの中からルイが取り出したのは、一冊の古びた本だった。

表紙は半分とれかかり、題字のあたりも破れて見えなくなっている。


「なに、それ……」


「“マザラン一族” っていう本よ。ただでさえボロボロだったんだけど、時、表紙がちぎれちゃって……」


ルイは立ち止まり、一瞬、口をつぐむ。

僕は、ふと感じた。

その姿……その目許めもとに、くぐもりを。

だが彼女はすぐに顔を振り、その本を差し出した。僕の前に。


「その中と……あと、マリ・マンシーニの回想録。そこに、書いてあるのよ。彼女の母親が夫の占いをものすごく恐れて……マリを決して愛さなかった様子が」


そのルイの声の調子……


泣いている……?


いや、涙はこぼれてない。

でも……彼女のどこかが……が、今、泣いている。



「他の兄弟姉妹たちの中で、たった一人だけ、鬼っ子扱いをされたの。たった7歳で、修道院に閉じ込められて……今で言う、育児放棄。虐待よね」


彼女はそう言うと、頭を振った。

何かを振り払うように。


そして裸足はだしを突っ込んだ。スニーカーの中に。


「さて、と。じゃぁ、伯爵、行きましょ」


「? どこへ?」


ルイは笑った。この5日の間に見せたこともなかったような、華やかな笑顔で。


「―――だって、どこかに? ?」

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