目覚めの朝 ―天啓―
僕は自分が二つに分かれたのを感じた。
また、乗っ取り?
いや、違う。
何かに乗っ取られたんじゃない。
僕が僕自身のまま……二つになったのだ。そっくりそのままで。
一方の僕はルイの話に耳を傾け、心を躍らせている。
もう一方の僕は……ルイの顔を見つめ、この巡り合わせを……この奇跡を、味わっている。
―――
寄り添ってる。まるで、情事のあとみたいに。
打ち解けてる。まるで、十年来の恋人みたいに。
でも、何も、してないんだ。
いや……
寄り添ってる、打ち解けてる、なんて言葉じゃ、とても足りない。
互いを確かめ合っている。
もっとずっと……何世代も前から知っている相手と。
そして、僕は確信している。
そう感じているのは、僕だけじゃない。
心地良い、長い沈黙。
その静寂を破って、ルイはもう一度、顔を突き合わせて来た。僕の顔に。
「……マリのこと……マリ・マンシーニのことを、あなたはどれぐらい知っているの……?」
この言葉で、『二つに分かれていた僕』が、スッとひとつに重なった。
僕のすべてを使って彼女の言葉に応えなきゃならないから。
この問いかけには。
自分の体の全細胞が、揃って彼女の方に向く。
僕は、言った。正直に。
今まで、知ろうとしたことがなかったということを。
ルイが調べているようには。
「……もちろん、いくつかの逸話は知っているよ。だけど僕が知っているそれって、ドラマとか映画とか、そんなのの聞きかじり。僕には、あの絵がすべて。描かれた時代の考証、絵の具、カンヴァスの素材。それから、フォルムそのものの比較」
ルイは上半身を少し起こし、僕の言葉をなぞった。
「フォルムそのものの比較……」
噛みしめている。言葉を。
瞼を閉じて……何かの味を確かめるみたいに。
僕は、その耳に、そっと囁いた。
「こう言ったら、驚く? マリ・マンシーニの肖像の中に、実際のマリを見ずに描いた肖像画があると」
ルイの瞼が開いた。パチリと……聞こえない音を立てて。
「……
「……
「実は、
僕らは、互いを見た。
大きく開いた
“世紀の大発見” が起きている?
―――僕らの間に。
僕はスマホを取り出し、
データベース代わりにしているのだ。
「例えば、ほら、これなんか……」
ピエール・ミニャールが1660年ごろに描いた、マリの肖像画。
その画像を示したとたん、ルイの顔が輝いた。
「
―――ラテン語で言うなら、エウレカ!
その絵は……絵画としての出来は素晴らしい。
だけど、ちっとも魅力を感じない。
ちりちりと焦げたような縮れ毛の、まるまると肥えた少女。
純白のドレスに青い縁取り。鮮やかな黄色のケープ。
言っちゃ悪いが、まるで似合ってない。
おまけに、奇妙なポーズ。
大粒の真珠のネックレスを、高く掲げた右手の指から真っ直ぐに垂らしている。
それを、左の手のひらで受けているという……変な絵だ。
実は、僕は、この絵に、あだ名をつけていた。
そのあだ名を言おうとしたとき……
「これ、絶対にマリ=アンヌよ」
「―――ええッ!?」
「!」
僕は自分の声を抑えることができなかった。
ルイを驚かすつもりはなかったのだが。
「ご、ご、ごめん……でも、僕も心臓が止まるかと思った」
「……どういうこと?」
「だって、読んでよ、ここを。僕が書き込んだところ」
僕はスマホの画面を指で示した。
そこに僕が書いたキャプションは……
「なになに……“これはマリ・マンシーニじゃない。勝利の獲物を掲げるマリ=アンヌだ”!? あなたもそう思ったの?」
そうなのだ。
その肖像画のモデルの豊満な肉付き。
ズドンとした太い首と太い腕。
離れ気味の小さな目。
笑顔にこそ愛嬌があるが、これは断じて “マリ” じゃない。
それに、その衣装とポーズ……どう見たって、これは “狩猟の女神” だ。
狩った獲物を誇らしげに掲げるアルテミス。
少しばかり……いや、かなり太っちょの。
―――これは、マリじゃない。
ルイは、と、見ると……なぜだか、頬を
「だいたい、
ルイは、僕の目の前に、指を差し出した。
スマホを貸せ、と。
ルイの細い指先が……僕のスマホの画面をタップする。
「……ほら! これ。この絵の顔! 見て!」
画面に出ているのは、ミニャールのとは別の、マリ=アンヌの肖像画だ。
大人になって、ブイヨン公爵と結婚した後の。
「……さっきの絵が少女の顔。こっちは大人になってから。ね? つながるでしょ?」
いつの間にか……僕らは頭を突き合わせ、同じスマホの画面を覗き込んでいた。
夢中になって……一緒にリサーチしているみたいに。
「マザランは、ずいぶん前から、ミニャールの絵の才能を知っていたんだ」
「……だから?」
「
「ふぅん……でも、マリはすでにイタリアで結婚させられていたから、モデルにはできない。だから、身代わりに、妹のマリ=アンヌをモデルにしたってこと?」
「僕は、そう思う」
「そういえば、マザランはマリ=アンヌをものすごく可愛がっていたみたいだものね」
僕は、スマホの画面を指でいじるルイの横顔を見た。
「―――きみは?」
「え?」
「きみも、なんだろう? きみも、あの絵がマリの肖像ではないと思ってたって、さっき。それは
ルイは、眩しそうに目を
スマホの画面から目を離し、枕に顔の片側をうずめた。
片方の目が……僕を見つめている。
「さっきのあの絵、違うのよね……記録と。真珠のサイズが」
「真珠?」
「伯爵……人間の瞳の直径って、何ミリか、ご存知?」
そんなこと、考えたこともなかった。
僕が顔を
「だいたい11ミリから12ミリなの。これは子供でも大人でも変わらない。男女でもね。人種で多少のブレはあるけれど、大した差ではないわ」
「へぇ……知らなかった」
「コンタクトレンズの大きさは、世界中ほとんど同じでしょ?」
「確かに」
「不思議じゃない? 地球上の人間はこんなにも多様なのに……唯一、瞳の直径だけは、ほとんど変わらないなんて……」
ルイの瞳と僕の瞳も、同じサイズだということか……
「だからね、伯爵……私が絵画上の
「へぇ……」
一緒のリサーチ……それが今は、授業を受けている気分だ。
でも、それもまた、僕をときめかせる。
ルイは寝返りを打ち、
僕も、見上げた。
点々と施された、金色の……星の形の装飾。
天蓋に、夜空が再現されている。
彼女が言う、彼女の視力では、生の星を見ることはできないかもしれない。
だが、ここなら……
「―――さっきのミニャールの絵ね。あのネックレスは、マリに贈られた
突然、僕は思った。
―――僕は、幸せだ、と。
「……太陽王がマリに贈ったネックレスは、35個という記録なの。でも、ミニャールの絵の真珠の大きさで35個もあったら、あんまり長すぎる。つまり、あの絵は、モデルもネックレスも
ルイの声。
ルイが話す、マリ。
僕のマリについて語る……真剣に語る、ルイ。
マリに似ている……ルイ。
僕の……ルイ。
天蓋の星の下で、僕の心は
「ねぇ、ルイ。僕はもっと……ずっと、聞いていたい……きみの話を……」
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