目覚めの朝 ―蜉蝣の羽の接吻―


消え入りたかった。

恥ずかしくて……


泣くなんて!

泣いて、彼女にすがるだなんて!!



僕を追い詰める。

あまりのが……

たったいま、思い出した光景……


―――“あなたが泣いているのを見て”


僕は、反射的に顔を枕に突っ込んだ。

ルイの言葉がよみがえったのだ。


本当は、逃げ出したかった。

このベッドの上から、この部屋から。

だが、それすらできない。

情けないこの顔を、彼女に見せる勇気がない。


けれど―――当のルイはというと、僕の煩悶はんもんにまるで気づいていないかのように、ひとりで話し続けている。

熱を出す前とは別人のように……


「―――解ったの。ああ、峠は越えたんだ、いちばん辛い時期は去ったんだって……そんなとき、目の前に、死ぬなと言って泣いてくれる人を見つけた。それで、解ったの。そんなことがあったら、ってことが」


僕は、ね起きた……愛するエメ、という言葉に。

実際に跳ねたわけじゃないが、そっと頭を上げた。


―――見ている。

枕を見ている僕の視界には入らないけれど、ルイは今、確かに僕を見ている。

そう感じたら、また、そのまま、動けなくなった。


「ねぇ……伯爵、実は私も混乱しているのよ。いま、自分が感じているこの感じが……自分の気持ちなのか、それともの気持ちなのか」


太陽王ロワ・ソレイユ、すなわちルイ14世。

“マリ” が愛した、たったひとりの男。


確か……1658年。


その年の夏、太陽王ルイは沈みかけたのだ。冥界の海に。

原因は猩紅熱しょうこうねつとも言われるが、定かではない。

その熱は、ここ数日のルイの熱の比ではなく、1か月近くも続いたという。


臨終りんじゅう秘蹟ひせき”、という言葉が人々の口のに上り始めたら、死の床に皆がつどうはず。

普通はそうだろう?


だが、そうはならなかった。

皆、彼のもとを去ったのだ。

彼を取り巻いていた愛人たちはもとより、彼の母親まで。

彼らが向かったのは、弟王子フィリップ・ダンジューの所だった。

つまり次の王となるはずの。


なんとひどい裏切りだろう……!


ひとりぼっちで高熱と闘った、少年王。


それまで彼の寵愛を得ようとあんなにも必死だった娘たち。

それらもみんな、彼を見限った。


だが、王は強かった。

王の体がついに病に打ち勝ち、死の淵から生還した時……目の前に、あったのだ。

たったひとりで彼を看病し、死なないで、と、泣き崩れる、マリ・マンシーニの姿が。


「その時の太陽王の気持ちが、きみに解ったかもしれないって……?」


僕は、やっと……ルイのほうを向いた。


「じゃぁ、なに? きみが太陽王ロワ・ソレイユなら、僕がマリか……?」


真剣に……少なくとも僕は真剣に、その疑問を口にしたつもりだった。

だけど、ルイはぷっと吹き出した。


「そんなこと言ってないわ。おかしな人ね」


ルイは体を起こした。笑いながら。


その時、不思議なことが起きた。


ルイがふと、唇を寄せて来たのだ。僕の唇の上に。



―――触れるか、触れないか。

蜉蝣レフェメールの羽みたいな、キス。



「……なんでしょ。夕べ、あなたがそう言ったのよ」


僕らの顔が離れると、ルイはベッドに体を預け、シーツの中にもぐりこんだ。

まるで何事もなかったかのように。



―――いま、起きたことは、何だ?



「まだ、少し、だるいの。こうやっていてもいい?」


「……もちろん」



僕は、うわの空だった。




―――いま、起きたことは……?




ほんの微かに触れただけ。

蜉蝣レフェメールの羽の……くちづけ。



ルイの唇の、渇いた部分と湿った部分。

淡く温かい体温の中の、水に触れてひんやりとした部分。

吐息が触れ、芳しいオイルレオノール・グレユの匂いがふわりとまとわりついた。


そこに性的な意味は……おそらく皆無だろう。

そんなもの、見出してはいけないのだ。

ただし別の……もっと大事な意味なら、あった。

確かに、そこに。



そのくちづけは、一瞬で吹き飛ばした。

僕から、何かを……ヴェールのようなものを消し去ったのだ。



今まで僕をすっぽりと覆っていた、僕というヴェール。

これまで僕らの間にかかっていた『知らない人』というヴェール。


それらが、突然、消え失せた。

一瞬のくちづけで。

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