第6の鍵 ―アセクシュアリテ―



の話は、ほとんど誰にもしたことがない。


なかなか理解されないし、話したところで何の役にも立たないから。



女性にって言ったって、経験がないってわけじゃないんだ。

つまり僕は童貞ヴィエルジュじゃない。



美術学校ボザールに通っていたころには、それなりの “関係” があった。

周囲の誰もがそうだったように、ごく自然に交際していた。

いつも、誰かと。

女とも、男とも。


その関係は、たいていは1対1で……まぁ、そうではない時も皆無ではなかったけど……


少なくとも僕自身は、いつもちゃんと真剣で、誠実な付き合いをしていたと思う。


ただ、どの関係も自分から始めたことはなかった。

自分でも不思議に感じてはいたのだが。


いつも相手から告白され、そしてたいてい相手が浮気をして、相手から別れを告げられる。

それが僕の “パターン” なのだ。


そして、ある時、こう言われた。

別れ話をしていた同性の恋人に。


「きみって、性欲がないんじゃないの?」と。


……衝撃、だった。


性欲がないなんて、そんなことあるわけがない。

だって、恋人とは “ちゃんと” セックスしていたんだから。


そう反論すると、彼はうんざりした顔になった。


「いや、たないの話じゃなくて……そもそもきみから “しよう” って言ってくれたことなんて、一度もなかったでしょ!」



―――それが、恋人と呼べる存在がいた “最後の記憶” だ。

僕が覚えている限りの。



その後、僕は勇気を振り絞り、別れるに至った、かつての恋人たちに訊いて回った。


そして、“それ”―――性欲がない、という指摘―――が、“本当だ” と言われたのだ。

会って話に応じてくれた、全員から。



僕が、カウンセリングを受けようと決心したのは、それがきっかけだった。


で、その結果、医者が下した診断が…… “無性愛者アセクシュアリテ” だったのだ。


―――とにかく……

のだ。誰に対しても。


つまり女であれ男であれ、さらに言えば自分であれ他者であれ……


人を好きになっても、ただ一緒にいるだけで満足してしまう。

そういうジェンダーもいるってこと。

それを僕は、僕自身ではなく、他人から解説されたのだ。

まるで、“病気”みたいに―――いや、医者が病気だと言ったわけじゃないが、僕は、僕自身が思ってもみなかった言葉で“解説”されて、そう感じてしまった。


でも……その、何が


確かに、恋人たちはみんな僕のことを『淡白』だの『お上品』だのと言ってはいたが、僕は彼らといられるだけで嬉しかった。



一緒にいるだけで満足なら、それでいいんじゃないのか?



―――いったい、誰に、何の害を与えると?



医者に “まぁ、性欲がなくても、そう困ることはないからね” と言われたのを最後に、僕は誰かとつきあうことをやめた。



診断された時は……医者の言うことなんて、ただの誤魔化しだと思った。

だって……一緒にいるだけで満足してくれる恋人なんて、現実にはいない。

いなかったから、僕はひとりぼっちになってしまった。

僕には人なみに恋愛をして、家庭を築くなんてことはできないんだ。

それが “困ること” でないなら、一体、何が “困らないこと” なのか!?



だけど……しばらくして、僕は気づいた。



自分自身が放った疑問への答えに。

医者に怒りをぶつける寸前だった。


『いったい、誰に、何の害を与えると?』


―――与えるんだよ。害を。

心の傷を。

自分が求められていない、と、相手に感じさせてしまう。

愛されていない、と、疑わせてしまう。

それは、傷害なんだ。

だから僕は否定される。それは当然なんだ。



やがて僕は、そういう僕の現実を、受け入れることにした。


それ以来……

誰かに僕が惹かれそうになったら、遠ざかる。

誰かが僕に惹かれそうになったら……やっぱり、遠ざかる。


そうやって来たし、これからもそうするつもりだった。



ところが、だ。

今朝、突然、が起きた。



薄暗いこの部屋でサングラスを掛けている “風変わり” な女性のせいで。


“何か”が僕を乗っ取り、僕の口や手や足に、僕の制御が効かない状態にしてしまったのだ。

僕はもう、自分が何を言おうとしているのかを前もって知ることもできないし、自分の体が突然動くのを止めることもできない。


きっと、僕は、自分はこういう人間なのだと長年かけて受け入れて来たことの全部、あるいは一部を、くつがえすことになるだろう。


でも、どうやって? どうやって、この転覆を受け止めたらいい? 

僕にはわからない。

誰もそんなことは教えてくれなかった。



ただひとつ確かなのは、もしもルイをこのまま帰してしまったら、きっともう、その答えは得られないということだ。



だから僕は……引き留めなければならない。

ルイを。

僕のかたわらに。

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